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 谷崎本人は「書いた当時は下品な講談のような感じがして我ながらイヤであり、世間でもそういう悪評を下す人があったけれども、いまでは必ずしもそうは思わない。ただ、文章が生硬で生な文字が使ってあるのが不愉快である」=『明治大正文学全集第35巻』(1928年)解説=と述べている。

谷崎潤一郎『お艶殺し』の新聞広告(東京朝日)

演劇、映画化も…谷崎作品のうち、「もっともよく劇化された小説」に

 ところが、中村ともえ「谷崎潤一郎『お艶殺し』論」(「文学」2008年11月号所収)は「お艶殺し」は「谷崎潤一郎の諸作のうち、最もよく劇化された小説である」とする。同論文によれば、初演は発表の翌年1916(大正5)年4月、歌舞伎俳優・片岡我當一座による大阪・中座だった。同一座はその後も3回上演。それらも含めて上演は大正年間だけで20回近くに上る。

 映画化も1922(大正11)年の帝国キネマ版(歌舞伎俳優が出演。題名は『おつやと新助』)をはじめ、1925年、東亜キネマ版(新劇俳優が出演)、1934年、日活版と続いた。日活版は辻吉朗監督、黒田記代、尾上菊太郎主演の日活オールスター映画。戦後も1951年、東映でマキノ雅弘監督、市川右太衛門、山田五十鈴主演で製作・公開されている。

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 同論文末尾の上演年表を見ると、初公判段階で舞台上演は東京、横浜、大阪、京都、神戸での計12回に上っている。実際の事件との関連に触れた文章は谷崎本人も含めて一切ない。もちろん発表当時、事件の全容は不明で、谷崎は単に「お艶殺し」という呼び名に触発されて小説にしただけかもしれない。それでも、初公判で傍聴席が超満員だったのは、小説と舞台で「お艶」の名前が知れ渡ったためだったのは間違いなさそうだ。

 判決は同年11月4日。各紙の記事はやはり小さい。比較的詳しい萬朝報の主要部分は――。

 渡邊乙松(40)に対して、東京地裁刑事2部、田山(卓爾)裁判長から「被告乙松を無期懲役に処す。窃盗累犯その他で懲役8年に処す」との判決言い渡しがあった。前田、岩村(通世)両検事の求刑通り。判決は、お艶が心変わりしたのを憤って殺害したとしていて、被告が陳述した、お艶に迫られての自殺幇助の点は全く認められなかった。

 そのためだろう。5日付時事新報は「さすがに大胆不敵の被告もいささか悄然として退廷した」と書き、「被告遉(さす)がに悄然として退廷す」と脇見出しにも立てた。刑が重複しているのは当時の法制度による。『史談裁判』や『斷獄實録』によれば、乙松は控訴したが、1921(大正10)年3月25日、棄却。さらに上告したが同年6月9日、これも棄却され、刑が確定した。その後、乙松がどうなったか……。資料は見当たらない。