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「絶縁を迫られたので、遂にお艶を殺した」

 しかし、乙松の供述を踏まえた決定内容はそれまで言われていた事件の構図を一変させた。9日付読売の見出しと記事の主要部分は――。

 絶縁を迫られたので 遂にお艶を殺した 例の三菱ケ原事件の犯人 渡邊乙松の餘審決定

 

 予審決定書によれば、被告乙松は1カ月以前から夫のあるお艶と私通(不倫)していたが、その後、夫忠正は瀆職罪(汚職)で起訴され収監されたため、お艶はやむなく養家へ引き移り、凶行の当夜、乙松に身の振り方を相談した。乙松はお艶を誘い出し、芝区露月町の乙松の養母のところへ伴う途中、同区柴井町のそば屋に立ち寄っていろいろ話し合ったが、お艶は夫がある身で乙松と関係したことを後悔して沈みがちだった。乙松は慰めながらそば屋を出て養母方へ行ったが、もう寝ていたので、引き返す途中、お艶はしきりに絶縁を迫った。乙松は心変わりに怒り、三菱ケ原に誘って羽織のひも2本を結んでお艶の両手を縛り、持っていた絹のハンカチでのどを絞め、さらに短刀で頭とのどを突いて殺したという。 

「絶縁を迫られたので遂にお艶を殺した」との見出し。予審決定で事件の大筋が明らかに(読売)

 乙松が刑事を装ったのも、お艶と打ち合わせのうえだったということ。初公判は早くも同じ10月の30日に開かれているが、報じた新聞はわずか。読売の記事は冒頭次のようだった。

 10年前の三菱ケ原のお艶殺しの犯人、渡邊乙松(40)の殺人、強盗の第1回公判は30日午前11時、東京地方裁判所で開廷された。銘仙(普段着用の絹織物)茶縞の袷に同じ羽織を着て落ち着きはらい、「お艶は、私の母のもとへ裁縫の稽古に来ているうちに関係しましたが、その後になって夫があるのを知りました」と述べた。

 後は予審決定書通りの供述だったが、乙松は「自分もともども死ぬ気だったが、お艶を殺した後、急に死ぬのが嫌になって逃げ出しました」と言い、裁判長に「うそをついてはいけない」と叱られた。すぐ求刑に移り、検事は無期懲役を求めた。

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 記事はこれで終わっているが、『斷獄實録』には「お艶殺し事件の公判廷の光景」の見出しで描写がある。「男はきっとうまくお艶をたらし込んで、だまし討ちに殺してしまったに違いない。傍観者の群集心理はこんな空想めいた同情心に燃え立って、この公判をこのごろの聞きものとして、群を成して押し寄せたので、法廷はたちまち大入り満員という盛況を示した」。

 森長英三郎『史談裁判』もこう書く。「今度は谷崎小説の名前をとって『お艶殺し』といって騒がれたので、傍聴席は超満員」。その指摘通り、事件には迷宮入りから逮捕までの間に新たな色彩が加わっていた。

文豪・谷崎潤一郎の小説で事件が広まった?

 谷崎潤一郎の小説『お艶殺し』=当初の新聞出版広告では「お艶ごろし」(「ご」は変体仮名)になっている=が雑誌「中央公論」に載ったのは、事件から4年余りたった1915(大正4)年1月号。谷崎は当時満28歳。事件と同じ1910年、『刺青』で衝撃的に文壇デビューし、耽美派の新鋭作家として売り出し中だった。

1928年ごろの谷崎潤一郎(『明治大正文学全集第35巻』より)

 ただ、題名は同じでも実際の事件と全く無関係で、小説の舞台は江戸時代。質屋の娘お艶が奉公人の新七と恋仲になるが、やがて男性遍歴を重ね、最後は新七に殺される“毒婦”もの。「絵入り草双紙の世界や歌舞伎の舞台に載せてみたような作品」=橋本芳一郎『谷崎潤一郎の文学』(1965年)=とされ、「中央公論」掲載から半年もたたない6月には単行本化されたが、当時は毀誉褒貶が激しかった。