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 溝の中にうつ伏せになり、左手は後ろにねじ上げられたうえ、首に手ぬぐいを巻き付けられ、頸部に2寸(約6センチ)ほどの突き傷があった。たぶんこれが致命傷になったらしく、無残な最期を遂げていた。所持品は金入れ(財布)と葉書き3枚(使用済みのものもあり)のほかは何もなく、風体から察すると娼婦らしいが、白フランネル(太い糸を使った毛織物)の腰巻(和服の一番内側の下着)をしているのを見れば、あまり堅気ではない家の女中らしくも見える。付近には被害者の物らしい高下駄が揃えて捨ててあり、工事で地面を掘り下げた近くには、激しく格闘したらしく、雨の後の泥の中に足跡がまだらにあり、血の沁みた桜紙(再生和紙)と半紙のような物と、泥に汚れた白足袋が落ちていた。

 手ぬぐいはハンカチの誤り。当時の新聞らしく、事実関係は新聞によって微妙に異なり、現場の表記も違う。『警視庁史第1(明治編)』と現在の新聞表記に従って以下「三菱ケ原」で統一する。記事はさらに、事件の核心に関わる遺体の状況を描写する。

 恥ずかしめられたか男に挑まれたかの形跡があり、帯と下締め(長襦袢の帯)は鋭利な凶器で切断され、羽織の右の紐付けは引き裂かれていた。この場所で殺害され、2間ほど引きずられて溝の中に投げ込まれたようだ。手掛かりとなるほどの遺留品がないため、加害者、被害者とも何者か判然としない。傘を持っていないところからすれば、前夜11時以降の凶行であることは間違いない。現場は昼でも往来が頻繁でない寂しい場所であり、午後11時以降、女性が一人歩きなどするはずはなく、どこから見ても愛人か、彼女に思いを寄せる男におびき出され、殺害されたものだろう。

被害者はまじめで穏やかな女性・お艶と判明

 東日は初報と同じ紙面に「被害者判明」の記事を載せている。日本髪に和服の写真もある。

「お艶殺し」発生と身元判明を報じる東京日日

 前記惨劇の被害者は、原籍滋賀県蒲生郡岡山村(現近江八幡市)、神田区(現東京都中央区)旭町8、木下忠正(23)の妻おつやと判明した。つやは秋田県雄勝郡湯澤村(現湯沢市)、土田(上田の誤り)春次郎の次女で、9歳の時、日本橋茅場町の仲買商、高井商店の番頭である神田区旭町5、渡邊惣七(63)の養女にもらわれて養育された。

 

 昨年9月、小石川区(現文京区)小日向水道端町の子爵・谷壽衛氏方に雇われたがうまくいかず、今年1月、同家から暇をとり、2月上旬から牛込区(現新宿区)西五軒町、岩佐太熊方に雇われて真面目に勤めるうち、いい嫁入り話があるとして9月25日、同家を辞した。岩佐と近くの産婆・越野でんが仲介して9月30日、木下と夫婦になったが、性格は穏やかであまり他人とも口を利かないほど。愛人などなさそうだという。

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 名前を「ツヤ」と書いた新聞もあるが、一般に通っているうえ『警視庁史第1(明治編)』も表記している「お艶」で以後統一する。木下とは入籍はしていなかったようだが、貧しい農家の娘が養女に出され、奉公を続けているうち、嫁入り先が決まってこれからは幸せに、と思われた。