事件発生地は、現在は日本のビジネスの中心地である丸の内の原っぱ
「三菱ケ原」は通称だったが、当時の人たちは皆そう呼んでいた。『東京商工会議所八十五年史上巻』(1966年)によれば、前身の東京商業會議所が麹町区有楽町1丁目1番地に本拠を置いたのは1899(明治32)年。用地が決まったのは1896(明治29)年だったが、「当時、三菱ケ原は狐狸(キツネとタヌキ)の出没するといわれた草茫々(ぼうぼう)の一帯であった」という。
そもそもこの地域がいつごろから三菱ケ原と呼ばれるに至ったかを考えると、明治4(1871)年の官版東京大絵図によると、和田倉門、馬場先門から日比谷辺りの堀端一帯には、兵部省のほか大名屋敷、御用邸などが櫛比(しっぴ=隙間なく並ぶ)して、広い草原のようなものは見られなかった。その後、これらの大名屋敷を改造した(陸軍)兵営が宮城の守りとしてこの地域を占めたが、明治20(1887)年ごろから、この兵営を移転して麻布、赤坂に赤レンガのモダンな建物が造られることとなった。
ところが、当時の陸軍はこの兵営建設費150万円(現在の約95億円)の調達ができず、窮余の結果、政府は松方(正義)大蔵大臣をして三菱の(2代目)社長・岩崎彌之助を説いて、一帯の地域を190万円(同約120億円)で買い取らせた。兵営が取り払われた跡は雑草の茂るに任され、丸の内はついに一望茫々の原野と化した。人力車夫が白昼ここで賭博にふけったというので「賭博ケ原」の異名が起こったほどである。三菱ケ原の名称が始まったのは、大体国会開設(1890=明治23年)の前後とみられる。(『東京商工会議所八十五年史 上巻』)
『岩崎彌之助伝 下』(1979年)によれば、岩崎は「お国へご奉公の意味を以ってお引き受けしましょう」と受諾した。面積は丸の内と三崎町の計約10万坪(約33万平方メートル=東京ドーム約7個分)で価格は最終的に128万円(同約81億円)だった。「この払い下げは半ば献金の趣意を以ってなされたので、地価を無視しての購入である。ある人が彌之助に『こんな広い場所を買って一体どうなさるのか?』と尋ねたところ、『なに、竹を植えて虎でも飼うさ』と笑ったという」(同書)。
しかし、三菱内部に日本にもロンドンのような近代オフィス街を、という構想があり、その後、1894(明治27)年の三菱第一号館をはじめ1911(明治44)年までに十三号館までが完成。馬場先門通は「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれた。東京駅が完成するのは1914(大正3)年。
事件はこの間に起きており、原野とまでは言えなくても、建物がポツポツと建っているだけで、その周辺以外は人通りのない寂しい原っぱだったのだろう。落語で名人と呼ばれた6代目三遊亭圓生は『江戸散歩 下』(1978年)で「三菱ケ原と言いまして、東京駅の辺りは草がぼうぼう生えて、神田橋まで行く間、なんにもなかったんです」「夜なんぞ、あんなところ歩こうもんなら、人殺しがあったとかなんとか言って誠に物騒な所でした」と語っている。