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被差別部落出身だった寅吉

 あまり知られていないが重要なのは、西川寅吉が被差別部落出身だったという事実だ。日本の部落解放運動は奈良県からの動きを中心に盛り上がり、1922(大正11)年3月、京都市で全国組織である全国水平社が創立された。綱領や宣言で解放への闘争と統一・団結がうたわれる中、月刊雑誌「水平」の発行も決議された。創刊号が発刊されたのは同年7月。そして同年11月に刊行された第2号に掲載されたのが輪池越智「社会講談 反逆者五寸釘寅吉」だった。下駄直しを業としていた寅吉が呉服屋の娘に恋をし、人並みに扱われるために金を求めて博打打ちになるストーリー。

「水平」を収録した『部落問題資料文献叢書第3巻』(1969年)の解説は第2号について「輪池越智こと楠川由久君の『反逆者五寸釘寅吉』などは、その他の生々しい残虐史とともに、当時の読者に多大の感銘を与え、いま読んでも涙を誘うものがある」としている。

『部落問題資料文献叢書第4巻』(1972年)の解説によれば、「水平」は月刊を目指したが、担当者が宣伝活動に忙しくて編集に専念できず、資金難もあって続刊できなかった。その後、雑誌は金がかかるから新聞でということになり、1924(大正13)年6月20日に「水平新聞」第1号が発刊。「反逆者五寸釘寅吉」はここに引き継がれて掲載された。同紙は月刊で、「反逆者」は10月の第5号まで通算6回連載されたが、中断したまま終了した。

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「反逆者五寸釘寅吉」は「水平新聞」に引き継いで掲載された

寅吉の「名声」に目をつけた者は多かった

 寅吉が通算50年といわれる獄中生活のすえ、8年の刑期を残して刑の執行を停止され、釈放されたのはこの年の9月3日。満70歳になっており、高齢と服役態度が勘案されたとみられる。最後の掲載となった「水平新聞」第5号の「反逆者」の末尾にはこんな「附記」が添えられている。

 本講談はいよいよこれから佳境に入りますが、筆者が行方知れずになったので一時休みます。

 次にこの講談の主人公の西川寅吉さんはさる9月10日、北海道の監獄から40年ぶりにひょっこり生まれ故郷の佐田(現三重県一志郡)=多気郡の誤り=へ帰られたから、同氏を訪問して、その訪問記でもこの次を続けようと思っています。71歳の寅さんは、現下の水平運動を見てどんな感じが起こるだろう。

 自由の身になった寅吉だったが、彼の「名声」に目をつけた者は多かった。『樺戸集治監獄話』によれば、東京の福祉施設から「人権擁護のため、保護と監視を加えて世話したい」と言ってきたのを始め、網走刑務所に問い合わせが相次いだ。刑務所長は、釈放後、本人が悪事に利用されないかと心配し、寅吉の出身地の役所に書状を送るなどしたという。結局、「(北海道)北見の興行師・大川一郎が身柄引き受け人となり『五寸釘寅吉劇団』を結成。一行とともに全国を行脚し、幕間に懺悔話や脱獄談を語って回った」(『博物館網走監獄』)。『樺戸集治監獄話』は「『免囚(出獄者)保護事業』という“大義名分”を掲げ、実際、1日10円(現在の約1万6000円)の保護費を収めることになっていた」と書いている。