「二度三度生まれ変わってこの世に出てきたところで…」深々と頭を下げて語る
「樺戸監獄夜話」には釈放間もないころ、寅吉が月形を訪れたことを記している。既に樺戸集治監は廃止されていたが、本館はそのまま残っていた。寅吉は旧正門に向かって深々と頭を下げ、こう語ったという。
わしは20年ぶりで娑婆に出ることを許された寅吉でございます。ふた昔以前はこの樺戸監獄や空知、釧路監獄で数々のお手数をかけた男でございます。わしの破獄は樺戸をはじめ空知、釧路、内地では秋田の監獄を破って逃げ去り、5回、6回と牢破りの男でございます。
わしの犯数は8犯で、18の子どもの時の遺恨の放火がたわいもなく見つけられ、未遂でございましたが無期刑で、わしもしばらく入牢中、小さい体ながら脱獄したのが始まりで、窃盗、賭博、強盗、強姦、数知れず。無期刑2つ、有期10年刑も1つ2つ。二度三度生まれ変わってこの世に出てきたところで、到底償い切れる罪ではありません。最後は網走分監で厄介になり、明治34年の秋、49歳で入牢。それからただいま、大正13年9月3日をもって本刑執行停止に相成り、全くのお上のお情けで、再び見られぬと諦めきっていたこの娑婆へ、こうしてまた大手を振って歩ける身となりました。72歳でありますが、まだまだ働こうと思えば働けます。きょうは、昔若い時からご厄介になり続けの樺戸へ、こうしてお礼に参った次第です。
頭を剃り、僧衣に数珠を持ち、全国を回って勧善懲悪を説いた
既にこの段階で経歴に誇張や虚構が交じっているが、北見の興行師が横にいたというから、これから始まる公演の宣伝イベントのつもりだったのではないか。寅吉は頭を剃り、僧衣に数珠を持ち、「雲外居士」を名乗って劇団の団員と北海道をはじめ、全国を回って勧善懲悪を説いた。「樺戸監獄夜話」によれば、いつも高座や舞台に1本の太い針金を渡し、役者がするするとその針金を伝っていく。「いわば大河を楽々と向こう岸へ渡り逃走する光景を見せた」という。
「五寸釘寅吉劇団」の「全国ツアー」は大都市から地方の小都市にまで足を伸ばした。千田三四郎氏は1986年1月21日付北海道新聞夕刊で当時、日本領だった樺太(サハリン)南部で寅吉と会った巡業中の旅役者の短文を紹介している。その記事の概要は――。
〈1926(大正15)年5月2日、本斗町(現ネベリスク)で寅吉の一行とすれ違った。寅吉劇団は大泊(現コルサコフ)、豊原(現ユジノサハリンスク)、真岡(現ホルムスク)を経て本斗町へ入り、本斗劇場で3日間、興行を打った後、稚内へ渡ったという。劇団は総勢20人で、うち寅吉と元妾の女性は特別扱いの旅館泊まり。他の団員は楽屋住まいだった。〉