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 明治10年代後半、日本の大衆向けの「小新聞」は欧米の小説の翻訳・翻案を紙面に掲載。激しい読者獲得競争を展開した。都新聞は主筆・黒岩涙香の翻案探偵小説が受けて部数を伸ばしたが、黒岩は上層部と衝突して退社。萬朝報を創刊した。都新聞はその穴埋めに、元警視庁刑事の「探訪長」らによる、実際の事件を題材にした実録探偵小説や、中里介山、平山蘆江、伊原青々園、そして伊原に頼み込んで都新聞記者になった長谷川伸らの社員が執筆した講談風の小説で人気を博した。

 戦後の1951年12月に出た雑誌「富士」特別増刊「大衆文藝出世作全集」の文芸担当OB記者座談会では「大衆文芸の基礎は、何といっても都新聞編集室にある」との発言が出ている。長谷川は随筆『材料ぶくろ』(1956年)で「伊原青々園が『五寸釘寅吉』を書きし以後の数年間は、再び探偵事実小説が大ウケにウケたれど、青々園が筆をモデル小説に移すに及びて、探偵事実小説は遂になくなりたり」(原文のまま)と書いている。

長谷川伸(『長谷川伸全集第十六巻』より)

常盤座の舞台「五寸釘寅吉」が大好評

 1899年2月5日付東京朝日(東朝)の演劇情報の中に、「横浜両国座」という芝居小屋が4日開場した演目の2番目として「都新聞『五寸釘寅吉』5幕」が見える。両国座はこの年の8月に火事で全焼していて詳細は不明だが、新聞掲載スタートから1カ月での舞台化というスピードは、小説がいかに読者に受けたかを物語っている。さらに同年6月28日付読売によれば、東京・赤坂にあった「演伎座」の7月公演でも「青木千八郎一座」による「五寸釘寅吉」9幕が上演されている。青木千八郎は、明治の演劇改良運動で川上音二郎、澤田正二郎らが立ち上げた「新演劇」グループの1人。

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 さらに同年7月25日付東朝の「奨励会第10回常盤座劇評」には「一番目は西川寅吉。これは前7回目に演じたる五寸釘寅吉の後日狂言なり」とある。常盤座はのちに映画館となる東京・浅草の芝居小屋。「五寸釘寅吉」の最初の舞台は4月で、画家から役者に転向した新派の水野好美と、名女形とうたわれた河合武雄が出演した。それが好評で、続編が早くも3カ月後に上演されたということだ。同じ浅草の宮戸座でも澤村訥子が演じたという。

水野好美(左)と、河合武雄(伊原青々園『明治演劇史』より)

映画化、講談などで人々を引き付け、犯罪ロマンの定番に

 1927(昭和2)年8月18日付読売の「初上演の時 五寸釘であてた伊原青々園氏」というインタビュー記事で、伊原はこう回想している。「最初の脚本は『五寸釘寅吉』で、『海賊房次郎』(やはり樺戸などで凶悪で有名だった囚人、大沢房次郎が主役の犯罪劇)の翌年、浅草の常盤座で少しずつ、幾度にも分けて上演されましたよ。盆の14日っていえば忙しくて芝居どころじゃない日なんですが、五寸釘の初めは盆の14日に売り切っちゃったんですよ。根岸興行部の先代が『芝居を盆の14日に売り切ったのは、何十年って芝居やってるけれども初めてだ』ってひどく喜んでいたんで、内心すこぶる鼻が高かったもんです」。空前の大当たりだったことが分かる。