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それでもわれわれが「右でも左でもない」を目指すべき理由

両極に振れやすい時代だからこそのポジショニング

2018/03/26

 現代の日本では、左右のイデオロギー対立がますます深まっている。今般の森友学園をめぐる事件ひとつ取っても、批判の仕方いかんによって、すぐ「右」「左」のレッテル張りが行われる。なんともやりにくく、発言もしづらい。

 その反動で「右でも左でもない」が合い言葉になっているが、これはこれで、風見鶏との批判も受けやすい。また、明らかに偏っている者も使っていて、この言葉自体、空虚なものとなりつつある。

©getty

 だが、それでもなおわれわれは「右でも左でもない」という構えを捨ててはならない。書き手の立場から、その理由を説明してみたい。

 これは、両極化しやすいこの世界でバランスよく自由にやりたい多くのひとにとっても、役に立つ視座になるはずである。

「赤旗から聖教新聞まで」

 もう4年近く前のことだが、ある編集者に「書き手として、赤旗から聖教新聞まで出られるように」といわれたことがある。そのときはそんなものかと軽く受け流していたが、年々そのことばの重要性を痛感するようになった。現在では完全に座右の銘となっている。

 もちろん、これは「日本共産党や創価学会に配慮せよ」ということではない。「両極端なメディアからともに声がかかるぐらい独自路線でやれ」ということだ。わかりやすく「右のメディアにも、左のメディアにも出られるようにせよ」と言い換えてもいいかもしれない。

 もっとも、日本共産党と創価学会の対立は、ときに左右のイデオロギー対立よりも熾烈なものだから、「赤旗から聖教新聞まで」はよくできた比喩ではある。