将来、猟奇殺人の犯人となることを約束されたかのような不気味な生い立ちを綴った手記によって、この作品は始まる。

 誰がこんな手記を書いたのか、なぜそんなものが存在するのか、そしてそれを読んでいるのは誰なのか。

 小説の、あるいは人間という枠組みそのものに揺さぶりを掛ける迷宮的な作品が本書である。

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 主人公は心療内科医であり、彼はECT(電気痙攣療法)すなわち電気ショックや催眠術を駆使する。

 ECTを行うと、患者は苦痛に満ちた表情を浮かべる。だが同時に逆行性健忘が生じる。したがって目覚めたとき、患者には苦痛の記憶が一切ない。すると本人にとって苦痛は存在しなかったのと同じではないのか。そんな疑問を以前から評者は抱いていたが、似たような発想が敷衍されてこの作品に用いられている。

 あるいは催眠術による記憶の書き換え。たんに苦痛の記憶「のみ」を心に埋め込んでしまえば、苦痛は過去に実在したも同然となるのではないだろうか。

 こんな記述が出てくる。「過去が積み重なり現在になる。それがこの世界の成り立ちで常識というのなら、僕はそれを拒否する。そもそも、なぜ人は悲劇を経験しなければならないのだろう? そしてその悲劇をわざわざ記憶にとどめ、そのことで、その後の人生まで損なわなければならないのだろう?」

 なるほど、切実な述懐である。でも苦痛や悲しみを心に秘めていない人物なんて、奥行きに欠けるし信用に値しない――いや、そんな感傷的な思いに囚われなければ現実を肯定できないわたしたちは、何といじましい存在なのか。

 邪悪な精神科医が、ある患者の内面に「悪意に満ちた老人の暇つぶし」を働き掛けることで、すべてが連鎖していったのだった。悲劇が起き、人生が次々に損なわれていく。自己同一性すらが損なわれていく。

 そんな異様な物語が、一冊の書物に詰まっている。

なかむらふみのり/1977年生まれ。2002年『銃』で新潮新人賞を受賞しデビュー。05年『土の中の子供』で芥川賞を受賞。09年発表の『掏摸 スリ』が、米ウォール・ストリート・ジャーナルの年間ベスト10小説に選出。

かすがたけひこ/1951年、京都府生まれ。精神科医。著書に『顔面考』『天才だもの。』『鬱屈精神科医、占いにすがる』などがある。

私の消滅

中村 文則(著)

文藝春秋
2016年6月18日 発売

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