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中川 充四郎
2018/04/28

球場に通い40年 もっとも印象に残っているライオンズの応援

文春野球コラム ペナントレース2018 テーマ「応援」

 今から25年前の1993年7月、ナショナル・リーグの球団拡張で新たに誕生したコロラド・ロッキーズの試合観戦にデンバーを訪れた。現在はビールでお馴染みのクアーズフィールドが本拠地だが、当時はマイル・ハイ・スタジアム。NFLのデンバー・ブロンコスとの共用で、収容人数は7万6千人という巨大球場だ。開幕初戦は8万人を超えたというニュースを聞き、その「大きさ」も体験したかった。

 運よくバックネット裏の席が手に入り、ワクワクしながら観戦。それまでも十数箇所のメジャー球場を訪ね、客席のメリハリのある応援に感心したものだった。要するに普段は静かに観戦し、チームがチャンスを迎えると大きな声で応援するスタイル。味方の攻撃中、トランペット等の鳴り物付きで応援し続ける日本とは違い、新鮮味を感じたものだ。

 さて、ロッキーズの攻撃。左右のせりあがった客席から地鳴りのような声が上がった。1塁側(右翼側)から「ゴー!」。それに呼応して3塁側(左翼側)から「ロッキーズ!」。これが何度も繰り返されるのだ。この迫力は初めての体験で、身震いを感じたほど。この日も、ほぼ満員だったので7万人を超える生声に圧倒された。この時に確認するのを忘れたが、きっかけを与えるリーダー役は球場のビジョンだったのだろうか。人間のリードでは、これだけまとめるのは不可能に近い。ここでも米国の「大きさ」に驚かされたものだ。

チビッコ中心だった1980年代の応援スタイル

 私が子どもの頃に観戦に行った球場は、のんびりした雰囲気だった。パ・リーグの南海ファンだったこともある。まとまった応援ではなく、個人のヤジがよく聞こえていたものだった。後楽園球場の3塁側、名物の「ボヤキのおっさん」が、大きな声でボヤくのを楽しんだ。グランドの選手にも間違いなく聞こえていたと思うが、選手は反応を見せなかった。当たり前か。でも、これらのヤジも相手を誹謗中傷するものではないので応援のひとつといえる。野村克也のファンだったため、その後ロッテ、西武とひいきチームはかわっていったのも付け加えておきたい。

 1960年代のまとまった応援といえば、テレビでみていた巨人戦。応援団長は、たしか四谷の公衆浴場を経営していた関谷さんと記憶している。攻撃中は、1塁ベンチの上で笛を吹きながらの三々七拍子。ファンはそれに合わせ手拍子。一通り終わると、ポケットから紙吹雪を取り出して巻き上げて一区切り。これぞ、応援の原点だろうか。

 40年ほど西武ライオンズ球場(現メットライフドーム)に通っているが、応援スタイルも大きく変化している。1980年代の外野席からの声援はチビッコ中心で、甲高い声が青空を抜けていったものだ。「子どもたちにサービスを厚くすることで、大人になっても球場に足を運んでくれる」との球団の方針によるもの。その成果が表れたかは検証していないが、観客動員数はチームの強さ、人気選手の出現などに左右されるので簡単に答えは出ない。ただ、日本シリーズになると、入場料金や平日のデーゲームの絡みもあり声援の「キー」が下がったのも当時の客席の特徴だ。

 当時は、トランペットの音程が不安定なのもご愛嬌。でも、あまり狂い過ぎると戦う選手のコンディションに影響しないかを危惧したほど。各選手のテーマ曲があり、それに合わせて声を張り上げることで楽しんでいるのは現在も続いている。応援リーダーたちの創意工夫も素晴らしく、それにファンもうまく応えて、グランドの内と外のチームプレーが伝わってくる。

応援名物となった風船飛ばし ©中川充四郎