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ソニー創業者・盛田昭夫の会社論 「会社は遊園地ではない」

会社は社会保障団体ではない! “楽しい職場”に甘えるなかれ

2018/06/05

source : 文藝春秋 1965年11月号

genre : ライフ, 働き方, メディア, 読書, テレビ・ラジオ, ライフスタイル

おどろくばかりの厚生施設

 日本の会社が、営利事業団体ではなく、社会保障団体に近いという事情は、付随して、いろんな現象を会社の内外にもたらしているようである。

 会社は、働くところ、もうけるところ、おたがいに厳しく評価しあって事業を進めるところ、という会社本来のフィロソフィーが、ぼかされ、曖昧になり、安全であればいい、庇護されればいいという事なかれ主義がはびこったり、「遅れず、休まず、働かず」とかいう「三ず」の精神がまたぞろ頭をもちあげてくる気配もある。これはもう、自分で墓穴を掘っているようなもので、それこそ、地獄の三途【さんず】の川に通ずる道であろう。

 そう考えてきて、私は、さいきんの日本の会社が、厚生施設をととのえることに、相当のエネルギーを払っていることに驚く。立派な食堂で安くてうまいものが食べられる。休み時間には、バレーボールやピンポンができる。ちょっと大きな会社にはプールまで用意されている。それに、音楽会はある、映画会はある。社宅まであてがっておいて、ウイーク・エンドには、会社の海の家や山の家へ行きなさい、大いに「楽しみ」なさい……会社が鉦や太鼓ですすめているようなものだ。

 どういうことなのだろう。会社は、社員の遊びまで世話をしなければならないのだろうか。アメリカから、たまに帰って日本の会社のやりかたを見ていると、仕事はつけたりであとは大人の遊園地のような感じさえしてくるのである。

「楽しい職場」は「働く楽しさのある職場」だ

 これは、ひとつの頽廃では、ないか。

 冒頭に述べた、楽しさへの疑問は、いぜん脳裏から去らないのである。

 アメリカ人を使っていて、最も印象的なことは、命じた仕事を終えたとき、彼らは必ず「マイ・ミッション・ウォズ・アコンプリッシュト(私の使命は達成されました)」と第一番にいうことである。

 彼らは、自分の使命(職務)はなにか、それをどれだけ達成したかを、つねに自分自身に問いただし、評価している。使うほうも、使われるほうも、さきの仕様書を基盤に、評価(エバリュエーション)をきびしく行なう。

©iStock.com

 命ぜられた以上によくやったと自分で思えば使われるほうでも、自分はいままで1万ドルで雇われていたが、これだけやったのだから1万2000ドルにベース・アップしてくれといってくる。使うほうでも、その際どうするかちゃんと理由を述べて、答を出さなければならない。

 要するに、彼らは、おたがいに評価しあうのが習慣となっており、正当に評価し、また評価されることが、自分のためでもあり、また社会のためでもあると、知らず知らずのうちに心得ているのである。

 そのさい、評価の根本基準が、たびたび述べた、会社はもうけるところだ、利益を長期的に確保しなければならないという、あのフイロソフィーであることは、申すまでもない。また、評価ということが、きびしい責任を要求するものであることも、当然のことである。

 そして出来る限り、自分を正しく評価してくれるところで仕事をしたいという願いは万人のものであろう。思えば、ニューヨークの大新聞の掲げる大きな“求人”のセクションは、こういう願いのあらわれでもあった。評価があってこそ、自己開発の可能性も出てくるのである。

 結論を先にいえば、「楽しい職場」というときの楽しさは、この評価しあうということを通じて、たえず自己を再発見し、新しい可能性に自分をぶつけてゆく楽しさでなければならない。仕事をする、働く「楽しさ」、これが、私の言いたいところなのだ。

 ところが、社会保障団体的な日本の会社には、評価の習慣がほとんど無い。「無責任の体系」は官僚の専売特許にとどまらず、一般の民間企業の間にも、根強く巣くっているように思えてならないのである。

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