盛田昭夫氏は、終戦直後の1946年に井深大氏とともに東京通信工業株式会社(後のソニー)を設立した。ソニー副社長だった盛田氏は、1960年、米国にソニーの現地法人が設立されると同社の社長に就任。アメリカのビジネス界から強い刺激を受けたようだ。

 その盛田氏が、東京五輪が行われた1964年に先進的なコーポレートマネジメント論を発表していた。

 ジャーナリスト・大西康之氏の解説付き。

出典:「文藝春秋」1964年7月号

企業は社会保障団体か

盛田氏 ©文藝春秋

 いま日本では、自由化対策とか開放経済にどう対処するのかということが、焦眉の急となっている。温室育ちの促成栽培も一応軌道にのって、世界の耳目を驚かすほどの経済成長を示しはじめたので、もはや一人前と認められて、弱肉強食の自由競争の世界にひきずりこまれ、いやが応でもそこで生きていかねばならなくなったのである。

 日本の企業に真の国際競争力があるか、厳しい世界の自由経済の中で生きぬくだけの実力があるかどうかが、いま世界の舞台で試されようとしているのである。各企業は着々とその準備体制をととのえつつある。企業にとってみれば死活の問題なのだから、必死になるのも当然である。

 しかし、私には一抹の不安がある。私などを含めて、日本の経営者が自由化問題に真剣にとりくんでいることは分るが、なお不安が残るのである。たとえば、自動車メーカーが量産体制をさらに整備するとか、車のモデルをどうかえるとかというくらいのことでは間に合わないのではないかと思う。

ADVERTISEMENT

 その場しのぎの対策では解決できぬほど、自由化が日本経済に与える問題は根深いものだと思う。

 日本といえば低賃金というのが国際的にも通り相場だが、もはや現在の国際経済は、低賃金では競争できない段階に達しているのである。いま必要なのは、何よりも生産性の向上である。いいかえれば仕事の量である。

 それゆえに、私は、国際競争に勝つために現在、日本の各企業がまず取組むべきことは、会社の機構、仕事に対する考え方という根本的なところを考え直してみることだ、と思う。

 私は数年間アメリカで暮してみて、アメリカの企業と日本の企業とが質的に違うような気がしはじめた。アメリカの企業というのはたしかに営利団体であるが、日本はそうではないような気がする。私流にいえば、むこうは社員の成績をエバリュエーション(評価)することが基礎になった経済体制であるのに対し、日本の多くの企業は社員の事なかれ主義を根底にした体制であり、極言すれば“社会保障団体”の観さえある。

 アメリカでは、自由経済の中の企業団体というものは「ギブ・アンド・テイク」の精神でとにかくもらったものに値するものだけは返すんだ、というやり方が徹底している。アメリカ人というのは、このエバリュエーションということばが非常に好きな国民だが、つねに成績をエバリュエートしてくれ、とつきつけてくる。日本でいえば勤務評定だ。

 ところが日本では、勤務評定には反対だ。組合などは働かない社員でもクビは切るなという。大きな間違いさえしなければ、みな同じように年功で上っていくという仕組みになっているから、一見営利団体のようではあるが、中身は社会保障団体のような様相を呈しているというのである。

 なるべく評価を減らして、年功によってみんなが平等に――というのだが、それは企業にとってみれば大変な悪平等だ。社会保障が企業と一体になっていると、働かなくても働いても同じものがもらえることになりがちである。とすれば、人間は次第に勤労意欲を失って怠惰になっていくだろう。

 日本では温情とか家族主義とかいうものが強調されすぎて、勤労意欲の喪失、怠惰の習慣をますます強めているような気がしてならない。

 このように見てくれば、アメリカの徹底した実力主義に立つ企業とわれわれ日本の企業が競争するのは、大変な危険のあることがわかろう。社会保障という大きなハンデキャップをもちながら西欧との企業競争に耐えられるだろうかと、私は内心不安なのである。競争力を高めようとするなら、回り道のようだが、この日本経済の根底にまず目を向け、改善の方向にふみださなければなるまい。自由企業は自由企業、社会保障は社会保障とはっきり分離させよと提案したい。

 このことは社員だけでなく、むしろ企業の中枢にある経営者こそ真剣に考えなければならない問題である。日本は“重役天国”といわれるが、これがつづくかぎりは、外国との競争に打勝つことはむずかしいような気がする。