文部省は「主君と家来」の文化というか
――実際に入省されての文部省の印象はいかがでしたか?
前川 いや、入る前からひどく保守的なところだろうとは思ってました。扱う分野は教育、科学、文化と大事なものばかりですが、役所自体が後ろ向きの姿勢だと感じていました。私は教育はもっと自由でなければいけないという信条でしたが、文部省は教育に対する国家の支配を強めようとしていましたから。これは自分の思想と、組織の論理は食い違うだろうなと覚悟してました。
――組織の論理という面では、他省は「上意下達」「上の命令は絶対」という雰囲気もあると思いますが、文部省はいかがでしたか。
前川 同じですよ。文部省はよく言えば家族主義的な組織、悪く言えば封建的なイエ制度みたいな感じです。主君と家来というかな。上司は自分の家に部下を呼んでご飯を振舞ってくれる、部下たるもの上司の引っ越しは手伝うもの。昔の村社会みたいな行動様式が残っていました。それがはっきりわかったのは2001年に科学技術庁と文部省が一緒になったときですね。科技庁はドライ。もともとが寄せ集め、霞が関の血筋の違う官僚たちが集まったところですから、明治4年以来続いてきた文部省の文化とは大違いでした。田舎と都市の違いのようなものを感じましたね。
――最初の配属は官房総務課。当時の大臣は内藤誉三郎(たかさぶろう)さんですね。
前川 そうです。文部省OBの政治家でした。内藤さんは戦後の教育行財政の基礎を作った功績の大きい方で、私はのちに財務課長として義務教育国庫負担制度も担当しましたから、まさに直の後輩にはなるんです。ただ「タカ三郎」というお名前だけあって、相当なタカ派であったことは間違いありません。
――直接お話をしたことはありますか?
前川 まだ下っ端ですから、直接謦咳に触れるようなことはありませんでした。タカ派的な保守的なことを言うというよりは、少し支離滅裂なことをおっしゃっていた記憶はありますが。
臨教審と加計問題
――入省後の文部省にとって大きな出来事といえば、中曽根康弘首相が主導した教育諮問機関、臨教審の設置だと思います。前川さんはどのように関わっていましたか?
前川 臨時教育審議会は1984年から87年。昭和59年から62年までの3年間ですよね。私は82年から84年までイギリスに留学していたので、帰国したら臨教審が始まっていた。私はそのとき高等教育局にいたんですが。
――高等教育局ではどのようなお仕事を?
前川 高等教育企画課の法規係長兼企画係長です。臨教審に関しては、高等教育を担当する第四部会と省との連絡役をしていました。臨教審は文部省と相当やりあったと言われていますが、第四部会に関しては協調的で、その成果として作られたのが大学審議会。これはもっと独立性の高い組織にするはずだったのですが、それができないまま大学行政は官邸に牛耳られ、現在の加計問題を起こすところまできてしまったわけです。大学審議会の設置には高等教育局の大崎仁局長、高等教育企画課長の遠山敦子さん、大学課長の佐藤禎一さんの「黄金トリオ」が真剣に考えて取り組まれていました。
――ちなみに当時の文部大臣は森喜朗さんでしたが、印象はいかがでしたか。
前川 あまり近くまで寄ったことがないので印象といっても、まぁラグビーで早稲田入った人でしょ、ぐらいな感じでした。森さんはワンマンだったから、秘書官が体を壊してしまったことがありましたね。