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知られざる「掌典職」の世界 儀礼担当者が語る「平成の大礼」の舞台裏

2018/08/19
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 大喪と即位の大礼を支えた当事者しか知らない苦闘の記録。元宮内庁掌典補の三木(そうぎ)善明氏が当時を振り返って語る(出典:「文藝春秋SPECIAL」2017年季刊冬号)。

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祭祀を司る「掌典職」は宮内庁の組織ではない

 私が掌典職(しょうてんしょく)の職員としてお仕えしたのは昭和48年から平成13年までのことです。28年間務めたことになりますね。もともと神社の家に生まれ、ご縁があって京都御所に出仕していたところを、たまたま引っ張られた(笑)。

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 掌典職というのは、宮内庁の組織ではないんです。祭祀を司る部署として、内廷(天皇の私的機関)に属している。掌典長、掌典次長、掌典までが管理職で、役所でいえば課長以上。そして私たち掌典補、女性の内掌典が祭祀の実務を担当します。私がいた頃は全員で23人いました。

 日常の業務としては、当直の場合には朝5時45分に起きて、御殿(神殿)を開けてお掃除をします。それから神様のご飯をこしらえてお供えすると、8時30分には当直の侍従さんが毎朝御代拝にみえます。その後、片付けをして、あとは役所的な管理の仕事に戻る。そして夕方になると、御殿を閉めて、神様にお休みいただいたら、私たちも寝る、という日々でした。さらに年間60回ほどのお祭りがあり、前の日の準備も合わせると、1年のうち3分の1は何らかのお祭りに関わっています。土日も関係なく、一般の公務員と比べると休日は3分の1くらい。外から見る以上にハードな仕事だと思います。私なんかは神社の倅(せがれ)ですから慣れていますが、別の部署から異動してきた人たちはよく体を壊していました(笑)。

賢所正門 ©時事通信社

 28年間の務めのなかで忘れられない体験といえば、やはり昭和天皇の御大喪、そして今上陛下の御大礼ということになります。

 大正天皇が崩御されたのが西暦で言うと1926年。すでに60年近くも前のことでしたから、当然、当時の儀式を知る人はほとんどいない。しかも今回の御代替わりは、敗戦後、新憲法下では初めてのこととなります。

大喪記録を一人で筆写

 私が1人で研究を始めたのは昭和57年頃でした。戦後の皇族葬儀ということで、最初に取り組んだのは、昭和26年に崩御になった貞明皇后の大喪の記録でした。タイプ印刷された、厚さ2~3センチの冊子数十冊にまとめられたものが掌典職にありましたので、儀式に関わる部分を原稿用紙に要約して書き出していく。当時はパソコンもワープロもない時代ですから、全部手書きです。

皇居前広場 ©文藝春秋

 これはまだ個人的な勉強ですから、業務時間にはできない。また、当時は「陛下がお元気なうちに、葬儀のことなどやるものではない」という先輩もおられましたので、職場でやることもできず、家に持ち帰って作業をしていました。

 この貞明皇后の記録を読むと、当時はまだ占領下でしたから、葬儀の形式について、神道式でやるか無宗教でやるか、政府内に議論があったんですね。そこでマッカーサーの後任のリッジウェイ最高司令官にお伺いを立てているんです。すると、リッジウェイの答えは、何故そんなことをいちいち聞くのか、亡くなった人の宗教でやればいいじゃないかというものだった。それで基本的には神道形式でやれるということが分かりました。