「憲法を使う」という観点で考える9条改正問題
高橋 ここからは「憲法を使う」という観点で、みなさんの関心の高い9条改正問題を考えたいと思います。現行は9条に、「戦力を保持しない、戦争はしない」といいつつ、自衛隊があり、防衛費は世界ランキング10位以内に入っています。これは本当に悩ましい問題で、ずっと議論を呼んできました。
長谷部 本書では意味論と語用論の話からこの問題を扱いましたが、今日はもともと9条の持っている意味というのは何だったのかというお話をしたいと思います。高橋さんが先ほどおっしゃったとおり、日本国憲法に書いてある基本権、基本的人権という概念は、それこそヨーロッパで何百年も前から醸成された考え方を受け継いでいますが、9条は違います。
高橋 ああ、確かにそうですね。
戦争に勝った国が「正しさ」だった時代
長谷部 9条は、条文を読んでも日本語としてよく分からないところがある。「国際紛争を解決する手段としては」戦争もしないし武力も行使しない、そうした目的を実現するために戦力も持たない、そういう条文になっています。実はこの「国際紛争を解決する手段」という言い方は、1928年のパリ不戦条約から来ています。ケロッグ=ブリアン協定という、フランスの外務大臣ブリアンと、アメリカの国務長官ケロッグが主導して、最終的にはその当時の世界のほとんどの国が賛成した条約です。この条約は「国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フル」ことを禁止すると言っています。
これはいったい何を意味しているのか? 憲法や国際法の日本の教科書を読むと、侵略戦争を放棄したと説明していることが多い。これは丸きりの間違いではないんですが、少しミスリーディングです。というのも、この不戦条約はそれまでの国際法の常識、戦争に関するものの見方を根底から覆した条約だからです。
それまでの戦争に関するものの見方は、オランダの国際法学者グロティウスが作った「正戦論」をベースにしていました。戦争は正しい根拠がなければやってはいけないというのが正戦論ですが、グロティウスはさらに、「正しい根拠があって戦争したかどうかは勝ったかどうかで決まる」という考え方でした。
高橋 ムチャクチャですね。
長谷部 国家間の紛争には中立で公平な裁判所は存在しない、少なくともグロティウスの頃には存在しなかった。だから、代わりに、決闘するんです。シェイクスピアの『リチャード二世』の冒頭でも、ボリングブルックとモーブレイが「お前が悪い」「いやいや、悪いのはお前のほうだ」といって、どちらが正しいかを決闘で決めようとする場面があるでしょう。勝ったほうが正しくて、負けたほうは文句を言えないのが決闘。グロティウスは、要は「戦争は決闘です」と言っているわけです。国家間同士、宣戦布告をして、「私はこういう正しい請求原因を持っているから戦争するぞ」と言い合うわけですが、結局はどちらが勝つかによって、どちらが正しいか決まる。
昔、ペリー提督がやってきて「開国しろ」と江戸幕府に武力による威嚇を行いましたが、あれは当時の国際法の観点からすると、別に違法なことではない。それから何十年かたって、今度は日本が当時の朝鮮国に対して江華島事件(1875年)をおこして無理やり日朝修好条規を結ばせたわけですが、これも当時の考え方からすれば違法ではなかったわけです。
そうした、誰が正しいかはどちらが戦争に勝つかによって決まるという考え方自体を、パリ不戦条約はひっくり返そうとした。ほぼ同じ時期にできた国際連盟も同じ方向性を目指していましたし、その考え方を延長した先にあるのが現在の国際連合であり、日本国憲法の9条です。「国際紛争を解決する手段として、戦争や武力の行使、武力による威嚇をしない」、つまり「われわれはもう決闘をしません」と言っているんです。だから、決闘の手段としての戦力も持たないし、「交戦権はこれを認めない」というのは、要するに、戦争するための正しい請求原因などもはやあり得ないと言っている条文なんですね。
でもパリ不戦条約自体、当時から自衛権は否定していません。ここで言う自衛権は、個別的自衛権です。集団的自衛権じゃありませんよ(笑)。自分が攻撃を受けた時に反撃するのはあり、というのが当然の常識だったわけです。ケロッグ国務長官も、アメリカ上院の審議でそう明言しています。それを前提に現在の9条を考えれば、個別的自衛権はありだという、歴代の日本政府がずっと主張してきたことは、それなりに根拠のある話です。