欧州難民問題を分析する『全体主義の起原』ハナ・アーレント

ベストセラーで読む日本の近現代史 第26回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
ニュース 社会 読書

容だったドイツが危機感を募らせている。〈中東・アフリカから欧州に渡る難民が急増している問題で、最多の受け入れ希望者を抱えるドイツのメルケル首相は8月31日、ベルリンでの記者会見で、欧州連合(EU)各国が負担を公平に分かち合えなければ、域内の移動の自由を認めた「シェンゲン協定」の見直しも検討課題になるとの考えを示した。/シェンゲン協定は1985年にルクセンブルクで署名されたのが始まりで、現在は一部を除くEU各国とEU域外のスイスなど計26カ国で実施。加盟国の間で原則、出入国審査なしに自由に国境を越えられ、欧州統合の理念を象徴する規定の一つとされる。/EUの規則では、難民の審査は最初に上陸した国が責任を持つ。だが実際は、入り口となるギリシャやイタリアが十分に対応できず、難民は国境審査のないEU域内を自由に移動してドイツなどへ向かっているのが現状だ。/メルケル氏は「欧州全体で動き、各国が責任を分かち合わなければならない」と指摘。「(負担の分担が)実現できなければ、(移動の自由を認めた)シェンゲン協定も課題になるかもしれない」と述べた。〉(9月2日「朝日新聞デジタル」)

 西欧諸国のみならず、トルコ、湾岸諸国、カナダ、中南米諸国などもシリア難民を積極的に受けいれる姿勢を示している。これらの諸国と一線を画しているのがイランとロシアだ。イランは、シリア難民をまったく受けいれていない。もっともシリア難民のほとんどは、スンニ派で、シリアのアサド政権の圧政から逃れるために難民となった。アサド政権を全面的に支援するイランに逃れたとしても、シリアに強制送還されるだけだ。

 ロシアはシリアに対する軍事介入を本格化している。特に深刻なのは、ロシアがシリア軍に最新の近距離対空防御システム(高射ミサイル砲複合)「パンツィーリ(ロシア語で鎧を意味する)S1」(NATOコードネームでは、SA‐22グレイハウンド)を供与したことだ。この兵器は、有人、無人を問わず固定翼機、回転翼機、精密誘導爆弾や巡航ミサイル、弾道ミサイルをも迎撃することができる。航空目標だけではなく、軽装甲車両などの地上目標も撃破可能である。ロシアによる軍事支援の結果、「イスラム国」(IS)と反政権の自由シリア軍による二正面作戦を強いられ、権力基盤が脆弱になっていたアサド政権が態勢を建て直しつつある。パンツィーリS1の配備によって、シリア軍は米軍の空爆に対抗することが可能になった。このようなロシアのアサド政権に対する露骨な梃子入れに対して、米国は反発を強めている。シリアには、19世紀後半に帝政ロシアの支配を嫌い、北コーカサスから当時、オスマン帝国の版図であったシリアに移住したチェチェン人、チェルケス人が数万人居住している。これらの人々が難民となり、親戚縁者を頼ってロシアに流入することをプーチン政権は警戒している。アサド政権を支援し、安定させることで、難民の流出を防ぐことが国益に適うとロシア政府は考えている。イランは、シリア、レバノンに対する影響力を拡大する目的でアサド政権を支持している。米国は、ロシアとイランが連携してアサド政権に梃子入れすることを警戒しているが、事態はその方向に向けて進んでいる。

アーレントの分析

 シリア難民は、アサド政権、シリア反体制派、「イスラム国」が三つ巴になって展開している内戦の結果生じたものだ。戦争が原因となる大量難民について、ハナ・アーレントが彼女の主著『全体主義の起原』の中で詳細に検討している。ドイツ生まれのユダヤ人であるアーレント自身が、フランスと米国に亡命した経験がある。運命の巡り合わせが少し異なっていれば、難民となった可能性があるので、知識人の観念的な議論とは異なるリアリティがある。アーレントは、大量の難民の発生は、第1次世界大戦とロシア社会主義革命とその後の混乱による現代的現象と考える。

 

〈もしこの事件(引用者註*第一次世界大戦)がこの一回の破局で完全に終っていたら、おそらくはこれほど劇的な様相を示しはしなかっただろう。だが大惨事のあと事故現場を覆う筈の悲愁の静けさは、今日に至ってもまだ訪れない。最初の爆発は今日まで止むことなく続いている連鎖反応の開始の合図のようなものだった。ヨーロッパ諸民族は戦争を生き延びはしたものの、諸民族の家族としてのヨーロッパは未だ回復せず、戦争に続いたインフレーションは所有関係を根底から変えてしまい、階級社会はそこから立ち直れないでいる。それに続いた失業は、われわれの知る資本主義的生産の危機とは名前しか共通点を持たなかった。今度の失業は労働者階級あるいは無産階級に限らず、すべての国、すべての職業に及んだからである。両世界大戦間に起った内戦は昔より血腥く残虐だったばかりではなく、ヨーロッパが数百年来、いや数千年来見たことのなかった民族移動を惹き起した。そして彼らのまだしも幸運な先輩たち、宗教戦争の被迫害者たちと違って、この難民と無国籍者の大群は、関係者の善意と人道主義的な努力にもかかわらずヨーロッパ内のどこにも住みかを見つけることができなかった。ネイションの基礎をなしていた民族-領土-国家の旧来の三位一体から諸事件によって放り出された人々は、すべて故国を持たぬ無国籍者のままに放置された。国籍を持つことで保証されていた権利を一旦失った人々は、すべて無権利なままに放置された。第1次世界大戦以来現実に起ったことは何一つ修復されず、不幸は何一つ阻止されなかった、再び世界大戦が繰り返されることすらも。事件はどれひとつとっても破局に等しい性格を持ち、そしてすべての破局は最終的破滅だった。〉

 16世紀の宗教改革の結果、幼児洗礼を認めないバプテスト派やメノナイト派などの急進派の人々は、西ヨーロッパでは激しく迫害されたが、北米やロシアでは温かく迎えられた。しかし、難民を温かく迎え入れる国は、第1次世界大戦後にはなかったのである。国家の庇護を失った難民は、人権のすべてを事実上失ってしまう。この点についてアーレントは、〈人権の喪失が起るのは通常人権として数えられる権利のどれかを失ったときではなく、人間世界における足場を失ったときのみである。この足場によってのみ人間はそもそも諸権利を持ち得るのであり、この足場こそ人間の意見が重みを持ち、その行為が意味を持つための条件をなしている。自分が生れ落ちた共同体への帰属がもはや自明ではなく絶縁がもはや選択の問題ではなくなったとき、あるいは、犯罪者になる覚悟をしない限り自分の行為もしくは怠慢とは全く関りなく絶えず危難に襲われるという状況に置かれたとき、そのような人々にとっては市民権において保証される自由とか法の前での平等とかよりも遙かに根本的なものが危くされているのである。彼らはたとえまだ無傷な文明が生命を保証してくれる場所で生きているとしても、政治的には生ける屍である。ソ連は20年代にロシアから追われた数百万の亡命者―彼らの唯一の罪はたまたま間違った階級に生れついたということなのだ―をこのような生ける屍にしてしまった。ナツィ・ドイツは、ユダヤ人に自ら徒党を組む機会も与えぬうちに彼らを「敵」と宣言したとき、それと同じことをしたのである。〉と強調する。

問われる日本の姿勢

 二度にわたる世界大戦への反省から、難民の人権保障に対する国際社会の意識が高まった。1948年に採択された「世界人権宣言」の中で、庇護を求める権利とすべての人間は差別されずに基本的人権を享受できることが確認された。さらに1951年には「難民の地位に関する条約」が採択され、難民とは、「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けられない者またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者」と定義された。もっとも平和に対する犯罪、戦争犯罪及び人道に対する犯罪や、難民として避難国へ入国することが許可される前に避難国の外で重大な犯罪(政治犯罪を除く)を行った場合には、この条約が適用されないことも規定されている。さらに1967年に「難民の地位に関する議定書」が採択された。通常、この条約と議定書を合わせて「難民条約」と呼んでいる。日本は、1981年に国会議決を経て「難民条約」に加入し、翌82年に発効した。

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source : 文藝春秋 2015年11月号

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