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幼い頃には映画をタダで…著作300冊を成し遂げた作家・佐伯泰英を生んだ「新聞屋の倅」ならではのゼイタク

『紙と私』

PR提供: 日本製紙連合会

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 私は戦中派である。大戦の最中、昭和十七年に生まれた。日本中が連合軍の空襲に焼け出され、大半の家庭にはなにひとつなかった。私が物心ついた戦後、まともな食い物などなかった。いつも腹を空かせていた。それが敗戦国の日本の暮らしだった。

 ところがうちには紙だけはふんだんにあった。新聞販売店が稼業だったからだ。とはいえ、新聞各社は紙不足のため合同で新聞を造り、販売していた。そんな時代だった。

 ともあれ店兼住まいの家から店員たちが自転車に乗って鹿児島本線折尾駅のプラットホームに乗りつけ、新聞を荷台に積んで競い合うように店に戻ってくる。私も三角乗りができるようになると、この店員レースに参加した。店に戻ると地域ごとに仕分けして配達に飛び出していく。老年で兵役にとられ、生来虚弱な体を傷めて復員した父といっしょに私は三十数軒の配達に出る。配達を終えると市場に立ち寄って魚屋などから広告のチラシを受け取ってくることもあった。

 そう、新聞そのものは情報発信の手段であると同時に、映画館やなんでも屋の百貨店のチラシを挟み込む広告機能も果たしていた。チラシはぺらぺらの紙に一色刷りだ。食い物も着る物もなくとも古新聞はそれなりにあった。

熱海・惜櫟荘(せきれきそう)にて
熱海・惜櫟荘(せきれきそう)にて

 戦後、華やかに脚光を浴びたのは映画だろう、戦火に焼け残った戦前の白黒無声映画が上映された。娯楽のない時代、映画館には大勢の人が詰め掛けた。数年後には新作が上映されるようになった。折尾駅の周りには、大映、東宝、松竹、東映、新東宝からなる五社協定の映画館プラス洋画劇場の各館があった。小遣いなんてまともにもらえなかったが十四、五歳ころから映画ばかり見ていた。入場料はどうしたか。新聞にチラシを挟み込む代わりに新聞屋には無料の定期券が与えられた。私はただで阪東妻三郎、大河内傳次郎、片岡千恵蔵、嵐寛壽郎、市川右太衛門、長谷川一夫、月形龍之助ら七剣聖のチャンバラ映画に没頭した。はい、新聞屋の倅でなければできないゼイタクでした。

 大学に進学する折り、日本大学芸術学部映画学科を選んだのは少年期の暮らしのせいだろう。だが、人生は幼い折りの経験のみではうまくいかない。大学を卒業後、その道に進んだが、映画は大勢のスタッフでの組織活動だ。勝手気ままな個人主義の私はすぐに落ちこぼれた。

 あるとき、物書きに転じた。むろんワープロ以前の原稿用紙に鉛筆か万年筆の時代だ。肌に合ったがフリーランスの稼ぎは不安定だ。売れなければ仕事がこない。あるとき、編集者氏に「佐伯さん、あんたに残されたのは官能小説か時代ものだな」と引導を渡された。

 おお、時代ものか、と最後の望みを文庫書下ろし時代小説に託した。そして『居眠り磐音』シリーズで日の目を見た。この二十五年でなんと三百冊、累計七千八百四十余万部の時代小説を刊行した。若い折り無暗に見た時代劇映画に助けられ、紙と付き合って晩年を過ごしている。

さえき・やすひで●1942年北九州市生れ。日本大学芸術学部映画学科卒。スペイン滞在を経てスペインや南米を舞台とした著作を発表、写真家としても活躍。99年時代小説に舵を切り、読者の熱い支持を得て、〈文庫書き下ろし時代小説〉スタイルを確立する。「居眠り磐音」「空也十番勝負」「酔いどれ小籐次」「照降町四季」シリーズなど著書多数。2018年、菊池寛賞受賞。

提供:日本製紙連合会

Photo:Shiro Miyake