日本初のブティックが原宿にオープンしてから50年。カルティエと日本を結ぶさまざまなストーリーを紹介する「カルティエと日本 半世紀のあゆみ『結 MUSUBI』展――美と芸術をめぐる対話」が東京国立博物館・表慶館にて開催中(~2024年7月28日)。それを記念して、作家 新川帆立さんが「週刊文春」に書き下ろした掌編をお贈りします。
「結び、深まる絆」
最寄り駅の改札を出て、やっと大きく息を吐いた。湿気をおびたぬるい空気が頬をなでる。
転職して一週間が経つ。大学を出て新卒で入った会社は一年で辞めてしまった。それからは長い無職生活。といっても、後から数えると、たった四カ月のことだった。あの頃は、仕事が見つからなくて焦っていた。毎日毎日、つま先から身体が少しずつ削られていくようだったもの。
「吉田さんの世代だと、卒業旅行もなかったでしょう?」
と訊いてきたのは、二十歳年上の女性課長だ。先ほどの歓迎会で、テーブルを挟んで向かいに座っていた。
「そうですね」ぎこちない笑みを顔にはりつけながら答えた。「パリに行こうと友達と約束していたんですけど、キャンセルしてしまって、行けずじまいでした」
「旅行はこれからいくらでも行けるけど」課長はほんの少し寂しげに、自虐っぽく笑った。「一緒に旅行に行ける女友達を、大事にしたほうがいいよ。働いていると、少しずつ疎遠になるから」
話題はすぐに他に移った。課長は去年からキックボクシングをしているらしい。部長は最近サボテンを育て始めたという。話を聞いているうちに、心が解れてきた。最初の会社よりずっと小規模な職場だけど、みんな穏やかで、各々のプライベートを尊重する空気があった。
「……よかった。よかったなあ」
心地よい疲れを感じながら、独り言をもらした。街灯がうんだ薄い影を追うように帰路を進んだ。
そうだよな、パリに行こうと約束してたんだよなあ。妙にしんみりとした気持ちになって、胸元のネックレスに指先で触れた。
「ふぁははっ」と、気の抜けた声で笑うマユミのことを思い出した。
色白で、美人で、だけど美容体重を十五キロオーバーした大柄な女。はちきれそうな身体をゆらしながら、顔をくしゃくしゃにして笑う。いつだって女子の輪の中心にいた。
マユミと出会ったのは、大学一年生のときだ。フランス語の教室に入っていくと、私とまったく同じワンピースを着ている女がいた。私のほうがスリムだったけど、マユミのほうが似合っている気がした。気まずくて目をそらしたら、マユミのほうから、
「わっ、おそろいじゃん」
と話しかけてきた。
「うちら、趣味合うよ。ねっ。しらんけど。ふぁははっ」
白い顔をくしゃっとさせて笑うマユミを見ていると、対抗意識だとか、警戒心みたいな尖った気持ちが、一気に消えていった。
私たちは体格も顔つきも、性格も全然違うのに、ファッションの好みだけは妙に近かった。申し合わせたわけでもないのに、靴や鞄まで似ていることがあった。「双子みたい」と笑われながら、並んで授業を受けたこともある。
授業中、マユミは声をひそめて言った。
「うちらフランス語を勉強してるけどさ。使うことあるのかな」
「あっ、ね。そうだよね。せいぜい英語を使うくらいだよね……」
「使っちゃおうか?」
「んっ?」
「フランス、行っちゃおうか?」
頬杖をついた手に、真っ白なほっぺが押しつぶされながらのっていた。二年生になっても、三年生になっても、白いほっぺと、パリって響きと「行っちゃおうか?」というマユミの声が混然一体となって、私の意識にこびりついていた。
いつのまにか、私たちは卒業旅行でパリに行くことになっていたし、資金を貯めるためにアルバイトも始めた。それぞれの就活が終わったタイミングで旅行代理店に行って、予約もすませてあった。結局行けずじまいになったのは、マユミの両親に不幸があり、それどころではなくなったからだ。
それから卒業までの間、時間がぽっかり空いてしまって、私はすっかり手持ち無沙汰だった。マユミがいないと自分はこんなに暇なのかと思い知った。戻ってきた旅行代金で、高級なネックレスをえいやっと買った。普段ならできない大きな買い物をしたのは、一人でいるのがあまりに寂しかったからかもしれない。
潮が引くように、マユミとは徐々に疎遠になった。就職して落ち着いたら連絡をとろうと思っていた。だけど私は職場になじめず、逃げるように辞めてしまった。無職期間中はなおさら連絡しにくかった。一方のマユミは、SNSで見るかぎり、何一つ変わることなく太陽のように輝いていた。外資系の化粧品会社に入って、ますます綺麗になった気がする。
「ただいま……っと」
ゆるくなったパンプスが、玄関で転がり落ちる。向きを整えるのも面倒で、そのまま部屋に入った。メイクだけ落としてベッドに寝転がる。何もする気がおきないのに、眠れるわけでもない。漫然とスマートフォンをいじっていたら、美術館で「夢のパリ展」が始まったという記事が目に入った。
「夢のパリ、ふふっ……夢だねえ」
白くて柔らかそうなほっぺが、脳裏に浮かんだ。SNSを開き、漫然とマユミのアカウントを見た。アイコンの写真が変わっている。まじまじと見つめ、「あっ」と声が出た。
マユミは、私とまったく同じネックレスをつけていた。
──うちら、趣味合うよ。ねっ。しらんけど。ふぁははっ。
朗らかな声がよみがえり、頬がゆるんだ。
久しぶりに、誘ってみようかな。
パリには行けなかったけど、パリ展には気軽に行ける。
そしていつかは、本当にパリにも──。
ほどけた縁を結いなおすように、丁寧に、ゆっくりとメッセージを打ち込んだ。
しんかわ・ほたて 米国生まれ。東京大学法学部卒業後、弁護士として勤務。第19回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞し、2021年『元彼の遺言状』でデビュー。著書に『剣持麗子のワンナイト推理』『競争の番人』『先祖探偵』『令和その他のレイワにおける健全な反逆に関する架空六法』『女の国会』などがある。
「カルティエと日本 半世紀のあゆみ 『結 MUSUBI』展 ── 美と芸術をめぐる対話」
「カルティエと日本」、そして「カルティエ現代美術財団と日本のアーティスト」という2つの「絆」を紐解く展覧会。ルイ・カルティエが抱いていた日本文化への憧れを感じることができるメゾンの貴重な歴史的ピースの数々や、同現代美術財団から世界へ発信された多分野のアート作品の数々など、見どころは尽きない。
[会期]2024年7月28日(日)まで
[会場]東京国立博物館 表慶館
[主催]東京国立博物館、カルティエ
[特別協力]カルティエ現代美術財団
[お問い合わせ]ハローダイヤル tel. 050-5541-8600
©Sho Shibuya, Fifty Sky Views of Japan
Marian Gérard, Cartier Collection ©Cartier
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