その工場を初めて見たとき、胸が高鳴った。

 中堅製造業の社長を務める田所は、敷地をぐるりと見渡しながら、思わず「ここだ」と口にした。幹線道路へのアクセスは申し分なく、今の工場からは車で15分。駅からも通いやすい立地で、従業員の確保にも困らないだろう。建物は築40年を超えているが、鉄骨造の外観はまだしっかりしているように見える。

 50代半ばを迎えた田所にとって、事業拡大は長年の悲願だった。受注は堅調に伸びている。生産ラインを増やしたい。だが、新築の工場を建てようと見積もりを取ったとき、目を疑った。3年ほど前に比べれば、軽く1.5倍から2倍。資材の高騰と人手不足が建築コストを押し上げ、中小企業にはとても手が出せない水準になっていた。

 そんな折、取引先の銀行から紹介されたのがこの物件だった。

「安心」のはずだったのに……ある日、すべてが暗転した

 売り手は、誰もが名前を知るような上場企業だった。事業再編に伴う拠点の整理で、M&Aマーケットに出された物件だという。

「上場企業が所有していた工場ですし、エンジニアリングレポートもついています。安心してご検討いただけるかと」

 仲介担当者の言葉に、田所は背中を押された。エンジニアリングレポート(ER)とは、建物の状態を第三者機関が調査・評価した報告書のことだ。土壌汚染の有無、アスベストのリスク、建物の劣化状況などが記載されている。これがついているなら、大きな問題はないだろう。田所はそう判断した。

 ERにはいくつかの注意点が記載されてはいた。「一部に劣化の恐れがある」「調査時点での外観目視に基づく」。だが、どれも“ダメ”とは書かれていない。田所は、それを“安心材料”として受け取った。

 製造業にとって、建物はあくまで生産活動のための“箱”だ。重要なのは、中で何を作るか。敷地面積には余裕があるから、事業がさらに拡大すれば増築もできるだろう。田所は社内稟議を通し、この工場を正式に取得した。

 半年後、事業は順調に回っていた。既存の設備を活用しながら、新しいラインも稼働させた。従業員も少しずつ増え、工場は手狭になりつつある。そろそろ増築を検討したい。田所はそう考え、知り合いの紹介で一級建築士に相談した。

 まず敷地全体の図面と過去の申請書類を確認したいと言う建築士に、田所は売買時に引き継いだ書類一式を渡した。数週間が経ったある日、田所の携帯が鳴った。

「田所さん、……ちょっとまずいかもしれません」

 建築士の言葉に、心臓がどきりと鳴った。

 建築士の指摘はこうだった。この工場には、いくつか小さな改築や増築の跡がある。しかし、そのうち少なくとも2件については確認申請の記録がどこにもない。つまり、過去の所有者が行政への届け出なしに“勝手に”増築した可能性が高い。

「無手続きの増築ということは、これは違法建築にあたります。このままの状態で新たな増築の申請を出せば、行政からは是正措置を求められるでしょう」

 田所の頭は真っ白になった。

ERでは見抜けなかった“潜伏リスク”の正体

 建築士は、田所が信頼の拠り所にしていたERについても率直に語った。

「ERは通常、数日間の現地調査と書面確認に基づいて作成されます。ただ、小規模な増築が申請なしに行われていたとしても、外から見て分からないケースは珍しくありません。だから“玉虫色”の表現が使われがちなんです」

 さらに問題は増築だけではなかった。工場の検査済証が見当たらないというのだ。

 この工場が建てられたのは昭和40年代後半。建築士によれば、当時は建物の「完了検査」を受ける受検率は3割にも満たなかったという。検査を受けるメリットがなく、役所から余計な指摘を受けたくないという風潮があった時代だ。

「検査済証という紙切れ1枚、あるかないかで状況はまったく違います。なければ、その建物が適法に建てられたことを今から証明するのは極めて難しい。技術的にできたとしても、一級建築士個人が責任を持てるようなものではありません」

 田所は呆然とした。上場企業が所有していた物件なのに、なぜこんなことになっているのか。

「お気持ちは分かります。でも、上場企業だから安心というのは、残念ながら先入観です。大企業であっても担当者はコロコロ替わる。過去にどんな増改築が行われたか、当時の記録も担当者も残っていないことが多いんです」

 車の改造に例えればわかりやすい、と建築士は言った。購入した中古車が純正のまま使われていたのか、それともマフラーやホイールを勝手に替えられていたのか。建物も同じで、設計条件と異なるクレーンが載せ替えられていたり、床荷重が変わっていたりすることがある。こうした“改造”は、ERの調査では見抜きにくい。こんな悲劇に陥らないために……
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 思い返せば、物件選びの過程で建物の中身を深く調べたことは一度もなかった。

 デューデリジェンス(M&Aにおける事前調査)では、土壌汚染や地下水の汚染といった「環境デューデリジェンス」に注意が集中した。化学物質やアスベストの問題は、将来の対策コストが莫大になることが目に見えてわかるからだ。それに比べて、建物の構造や適法性への意識は、どうしても後回しになる。

「今稼働しているんだから、建物はなんとかなるだろう」

 田所自身、そう思っていた。いや、思いたかったのだ。立地と価格、そして上場企業のブランド。それらが揃えば、まさか建物に致命的な問題が潜んでいるとは考えにくい。だが現実は違った。

 建築士は、ERの表現について“玉虫色”という言葉を使った。「恐れがある」「調査時点では確認できなかった」。こうした曖昧な記述は、限られた調査時間と範囲の中で書かれたためで、悪意があるわけではない。だが、買う側にとっては、その曖昧さが“安心”にすり替わってしまう。

 違法建築であることが分かった以上、このまま稼働を続けるわけにはいかない。耐震改修は法律上の義務ではなく“促進”にとどまるが、有事が起きたときに所有者の安全配慮義務が問われるのは、紛れもなく田所自身だ。

 田所は途方に暮れた。

社長仲間が「ギリギリで助かった」理由とは?

 翌週、同業の社長仲間である木村との食事の席で、田所は愚痴をこぼした。

「木村さん、聞いてくれよ。工場を買ったはいいけど、もう“事故物件”みたいなもんだ……」

 一通りの事情を話し終えると、木村は意外にも落ち着いた表情でうなずいた。

「実はうちも、M&Aで取得しかけた物件があったんだけど、ギリギリで取りやめたんだよ」

 木村の会社も同じように、中古工場のM&Aを検討していた。ところが契約の直前に、知り合いから「建物の専門家に一度見てもらったほうがいい」と助言され、伊藤忠丸紅住商テクノスチール(MISTS)に耐震診断を依頼したのだという。

「耐震診断をきっかけに、建物の適法性にも疑わしい点があることが分かってね。追加で調査を実施した結果、やっぱり違法建築だったんだ。購入前に分かったから、うちは契約を見送ることができた」

 田所は驚いた。MISTSという会社の名前は初めて聞く。

「耐震の診断から補強設計、工事まで一貫して対応できる専門のエンジニアリング会社なんだ。建物に潜むリスクを専門家の目で洗い出してくれる。ERだけでは見えない部分を、徹底的に調べてもらえるんだよ」

 田所はMISTSに連絡を取り、まず現状の工場について調査を依頼することに決めた。無手続きの増築、見当たらない検査済証、設計条件から逸脱した設備の使い方……。問題は山積しているが、まずは何がどこまで是正可能なのかを整理しなければ、次の一手が打てない。

 MISTSの担当者は、田所にこう言った。

「建物の不具合は、現地を詳細に調査し、行政ともすり合わせをして、初めて全体像が見えてきます。ERだけでは分からないことが多い。だからこそ、購入“前”にご相談いただくのが一番なんです」

 田所は深くうなずいた。購入前に建物を“診る”。その当たり前のことを、自分は怠っていた。立地の良さに目を奪われ、上場企業のブランドに安心し、ERの存在で思考停止してしまった。

 実はいま、田所は2棟目の工場取得を検討している。事業の拡大は止められない。だが今度こそ、契約のハンコを押す前にMISTSへ相談する。

 まず、建物を「診る」ことから始める。それが、田所が身をもって学んだ教訓だった。

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Illustrations by Great International
※この物語はフィクションです