50歳を過ぎてカナダ・バンクーバーへ渡った光浦靖子さんが物価高の現地で臨んだW杯の短期バイトは過酷なものでした。ボロボロになった彼女のピンチを救い、「帰りに鼻歌を歌える」まで回復させた相棒とは……?

 

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 夏になりました。ここバンクーバーの夏はもはや世界一と言っても過言ではないでしょう。約半年間どんより雨のシーズンを我慢してもお釣りがくるほどです。毎日がカラッと晴れ。空はスコーンと青く突き抜けて、太陽はジリジリ痛いほど強くて、でも海から吹く風は冷たく、木陰に入ればかいた汗はすぐにひきます。夜はちゃんと涼しくなります。今の地球上でこんな夏を過ごせるって、これこそが贅沢だと感謝しています。

 バンクーバーにはおしゃれな店はあまりありません。東京のようにすごいレベルの美術展、コンサート、演劇、お笑いライブ、そんなものは毎日行われていません。じゃ何して遊ぶの? 歩くんです。休みだ。何しよう? とりあえず歩くか。マジでこんな感じです。街には公園や緑が多く、少し車で行けば森や海、自然がいっぱいあります。

 ここに来たばかりの私は「歩く」ということが嫌いで、というか、東京では人に見つからないように下を向いてコソコソ歩くことしかしてきませんでしたから。みんながみんな悪い人とは限りません。みんながみんな私のことを知ってるわけありません。そんなもん百も承知です。

 でも不躾にジロジロ見られたり、目が合えば逸らすどころか5秒も10秒も見続けてきたり。猿だったら挑発と受けとられ、血みどろの戦いになってますよ。こっそりずっとカメラを向けられてたり、家にまでついて来られたり。こんな経験をすると街を歩くことが嫌になります。怖くなります。帽子を深く被り、アスファルトしか見ない、忍のように気配を消す、これが私の「歩く」でした。

 でもここでは誰も私のことを知りません。でも目が合えばニコッとしてくれます。え? 何これ? 目が合ったら逸らすんじゃなくて、睨むんじゃなくて、口角を上げるの? こんなに気持ちが良くなるの? なんと簡単で誰でもできることをなぜ我々はしてこなかった? なぜ学校で教えてくれなかった? 顔を上げて歩くと空が見えるんですね。

 木々の葉はツヤツヤ、ピカピカしてて、いつもどこかに必ず花が咲きこぼれています。歩くことが楽しくって、楽しくって。今ではバンクーバー人のように晴れた日に外に出て歩かないと、体がむずむずするようになりました。

 日光を浴びないとビタミンDが作れないから、と、特に白人の方々は日光を貪ります。お肌を気にして、夏でも板金加工業者並みに顔面を覆うようなマスクをしているのは東アジア人、中国人か韓国人か日本人です。でも私調べによると観光客や、こちらに来たての人らが多く、ここにいるうちにみんなシミやソバカスやシワをさほど気にしなくなり、マスクを外していく傾向にあります。

 シミ、ソバカス、シワ、これを「生きた証。美しいもの」とするのは私もちょっと難しいと思います。でもシミやソバカスやシワを忌み嫌うのではなく、ちょっと方向を変えて、全く価値のないもの、とすればいいのにね。全く価値がない、本当にどうでもいいもの、だからあってもなくてもどっちでもいい、そんなもんで美しさは損なわれない、となればね。

 

「キッチンでのフルタイムは無理!」な55歳に舞い込んだW杯の短期バイト

 日本に比べれば物価の高いバンクーバーで生きてゆくにはお金を稼がねばいけません。私のここでの主な収入は手芸のワークショップ、それにクラフトマーケットなどでの作品の販売、YouTube、小さなバイトなどなど。作品は一つ一つ手作りですから、まあ時間がかかります。

 ひと月費やして作品を作り完売したとて、家賃には届きません。YouTubeも機械オンチの私が一生懸命2日も3日も費やして編集しても大したお金にはなりません。たまにヒットするVTRもありますが、平均は1回ランチしたらなくなる程度です。生活費がもう少し欲しい。が、私にできることって何?

 一応カレッジで料理を2年勉強し(2024年春に卒業)ゴリゴリに鍛えられました。が、ゴリゴリに鍛えられた結果、逆に「キッチンでのフルタイム労働は私には無理!」という結論に達しました。体がついてゆけない。しかしこう、あの戦場のような忙しいキッチンで、それをうまく乗り越えた後の達成感と疲労感がなんとも気持ちいいんですよねぇ。

 舞台やテレビ収録で笑いが取れた時に脳内にジワーッと溢れ出る汁、あれに近いもんがあります。脳内麻薬。一度味わうとやめられなくなるやつ。キッチンで働くのは体力的に無理、でも働きたい、毎日は絶対無理、でも働きたい。

 こんなわがままを叶えるようなバイト情報が舞い込んできました。FIFAワールドカップ中だけ、会場にある売店のキッチンで働ける人を募集している、と。2026年のサッカーワールドカップはご存じ、メキシコ、アメリカ、カナダで開催されました。そしてここバンクーバーでも7試合が行われました。その7日だけのバイト募集。

 うちのカレッジと会場となるBCPlace のキッチンとは協力関係にあり、うちのカレッジの卒業生、在学生を多く採用しています。元クラスメイトも数人バイトしています。そしてカレッジで教鞭を執るシェフも何人かそこで働いています。あ、シェフというのは信じられないくらいの体力を持ち、休日も動いてないと死んでしまう生き物なのです。そしてそこで働いているシェフたちがみんな、私の大好きなシェフばかりで、久々にシェフに会いたくてバイトすることにしました。

ハチ襲撃、とんでもない暑さ、激しい腰痛…初日の這々の体と「アミノ酸」

 初日、私はパテオ、屋外の店に配属となりました。

 知ってるシェフとも同級生とも一緒になれませんでした。どれくらい忙しくなるのか誰もわかりません。念には念を、なんですかね、テントの中にはシェフ1人、アシスタントシェフ2人、バイト12、3人ほどがいました。

 このテントは駐車場のようなところに建っていて、テントはグリルやスチーマーなど火に囲まれていて、お客さんから見えないようにと幕が下ろされているところもあり風は通らず、そこに15人ほどの人間がいますから…とんでもなく暑い。水を飲んでも飲んでも喉が渇きます。頭がぼーっとします。たまに呼吸を忘れます。

 試合の3時間前にゲートがオープンになりどっと人が雪崩れ込んでくるはずだったんですが、それに備えて万全の準備をし、緊張と興奮をしながら待っていたんですが…ちーっとも客が来ません。どうした? 待てど暮らせどやって来ません。なぜ? テントの幕の向こうを覗くと、なんとレジのトラブルで店がオープンしてなかったみたいです。へ? 1時間以上過ぎた頃、動き出しました。でもこんなことがあってもみんな焦ったり怒ったりしないんですね。

 いい意味でも悪い意味でもザ・カナダです。さて店はオープンしたはずなんですが、それでも客が来ません。なんでだ? 後々改善されてゆきますが、この店、客からすごくわかりにくかったみたいです。もう、ザッツ・カナダ。

 ただ暑い中でやることがない。逆に疲れます。気を抜くとすぐに仕事を奪われてしまいます。そう、キッチンで働く人間は皆、暇することが苦手なんです。私も動いていればいいんですが、ただ立っていると腰が痛くて。あまりの暇さと腰痛でちょいちょいしゃがんでました。これを見た神様が私の勤務態度を叱責したのでしょうか。

 突然、胸の辺りにザワザワという違和感を感じました。何? 何なの? ぎゃ、服の中で何か動いてる‼ 白衣の上から擦ると胸に突然、バチンと衝撃が走りました。痛いっっっっっ! なんなの⁈ 咄嗟に襟元から手を突っ込むと何か小さな丸いものが手に触れました。なんなんだ⁉ それを摑み、襟元から取り出そうとした瞬間にバチン、今度は指に衝撃が走りました。

 痛いっっっっっ! 反射的にそれを放り投げると、アスファルトの上で黄色と黒の縞々の一円玉くらいの丸い虫が、体を震わせながらくるくる回っていました。 

「ハチに刺されたーーーーー‼」。 暇なテントに私の声が響きました。

 後で調べるとどうやらマルハナバチという虫だったようです。白衣の下にTシャツも着てるのに、どうやって潜り込んだ? 

 暑さと虫刺されと腰痛で、帰りは駅まで一回休まないと辿り着けない、限界、みたいな初日でした。あと6日、働かねば、対策を取らねば。アスリートは運動前後にアミノ酸を飲むそうです。疲れ方が違うそうです。腰にコルセットを巻き、アミノ酸を飲んで臨むことにしました。

できない子扱いからの逆転、バーガー包みで夢が叶う

 パテオは日々改善され、メンバーはシェフ1人、アシスタントシェフ2人、ベテラン1人、と少数精鋭に絞られ、メニューも増えました。そこに何故か私一人だけが配属。私以外がゴリゴリに働ける男性ばかりで、忙しくなればなるほど目が爛々と輝くような人らで、私は完全にお味噌(できない子)扱いでした。

 力仕事と重要な仕事は任されない。一度「私だって役に立たねば」と、でっかいゴミ箱をガラガラ引いてゴミ捨て場まで持って行ったはいいが、ゴミ箱からゴミ袋を持ち上げられませんでした。うんともすんとも、びくとも。結局、シェフを呼びに行く羽目になり、二度手間で申し訳なかったです。

 私はただひたすらバーガーを作り、紙で包み、そしてシューター(スロープになった保温棚)に放り込む、という仕事担当になりました。それが、それが、ちょ〜楽しい。私の子供の頃の夢は「お店屋さんになって包む人になりたい」でしたから。おっかさん、夢が叶ったよー! 私にはバーガーを包む、という隠れた才能があったみたいで、誰よりも早いわ上手いわ。みんな慌てると包みが緩くなるか、バンズが潰れたりするんですね。でも私の作品はいつも美しい。世界に誇るラッピング王国ジャパン代表ですから、レベルが違いますわな。

イラスト:おおうちひなこ

 試合開始前はどれだけバーガーを包んでも足りなくなる、という嵐のような忙しさです。メンバーは男性ばかり、紅一点、興奮状態の私の頭の中では常にレベッカとジュディマリが流れているのでした。

無理をしない「大人の引き際」と、帰りの駅でのうれしい変化

 ただ暑い、を除けばいい環境です。パテオは試合開始とともに閉店するようになり、その後スタジアム内の売店に手伝いにゆきます。温室のようなところでの5時間労働は、体力なしの根性なしの55歳の体には堪えます。体力ゲージは残り15%といったところになります。そこに追い労働。しかもすでに出来上がったチームワークに加わるのは難しく、精神的にも疲れます。試合前の「助けがマジ必要」って時間はすでに過ぎているんだな。

 試合中は暇だからモニターで試合が見れるぞ、なんて思っていましたが、目の悪い私には廊下の天井からぶら下がるモニターが小さくて、全く見えません。しかも消音。ただドアの向こうからたまに「わーーー!」という歓声が聞こえるだけです。ここのキッチンは客から丸見えなのでいつ何時も座ってはいけません。一仕事終えた後の「気をつけ」の姿勢で立っている長い時間。なんの修行だ?

 思い切って聞いてみました。

「あの、人数も足りているようですし、あの、パテオが終わったら帰るってのは可能で…?」「え? 働かなくていいの? お給料少なくなっちゃうよ?」「はい。大丈夫です」。

 後半は私一人だけが早く上がる、という日々になりました。なんだろう、この特待生な気分。選ばれし者の気分。腰のコルセットのせいか、アミノ酸のせいか、5時間労働のせいか、帰りの駅まで普通に、いや、なんなら元気に歩けるようになりました。たまに鼻歌歌ったりしてね。みんなよりお給料少ないだけなのにね。

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