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大洋ホエールズ球団歌『行くぞ大洋』生みの親、三鷹淳さんに会いに(前編)

文春野球コラム オープン戦2019

2019/02/13
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初めて明かす“元ネタ”の存在

 その1977年を最後に大洋は川崎から新生・横浜スタジアムに本拠地を移転する。出来たばかりの球団歌は歌詞を変えることなく受け継がれたが、実は『行くぞ大洋』には幻の「横浜大洋バージョン」が存在していたという。

「1978年3月にチャッピーズに集まってもらい、間奏部分の“フレー フレー 大洋”を“フレー フレー 横浜大洋”に差し替えてレコーディングしているんです。でもその新バージョンは結局陽の目を見なかった。もしかしたら横浜大洋ではやや字余りになって、ファンが歌い辛いとの判断があったのかもしれない。ジャケットは選手がYOKOHAMAのユニフォーム姿で写っているものに差し替わったけどね」

ジャケットだけ横浜大洋盤に変わったが曲はそのまま 提供/黒田創

 そしてもうひとつ、三鷹さんは「これは初めて話すんだけど」と前置きして打ち明けてくれた。

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「1975年に僕は古関裕而さん作曲の『郡山商業高校応援歌』を歌っているんです。その中に“♪行くぞ オゥ オゥ オゥ 勝つぞ オゥ オゥ オゥ”ってフレーズがあって、とても気に入っていた。で、翌年『行くぞ大洋』の歌詞をいただいた時に、そのフレーズがピタッとハマったわけ。それで曲の頭に使わせてもらったんですよ」

『行くぞ大洋』には元ネタ的な曲が存在していたのだ。それにしても三鷹さんが『郡山商業高校応援歌』で「♪行くぞ オゥ オゥ オゥ」と歌った1年後に「♪行くぞ 大洋」という歌詞が舞い込んでくる。なんと運命的な巡りあわせか。

「僕は長年古関さんの曲を歌ってきているので、もし古関さんが『行くぞ大洋』を作曲したらこんな曲調にするだろうなという意識が働いたんだよね。つまり、確信犯的に同じフレーズを使ったんです。もっとも、郡山商の応援歌を作詞した丘灯至夫さんには気付かれてチクリと指摘されたけど(笑)」

 そう言いながら三鷹さんは『郡山商業高校応援歌』と『行くぞ大洋』を交互に流してくれた。誕生秘話を伺った後だと、初めて聴く郡山商の応援歌が身近に感じられる。でも聴けば聴くほど『行くぞ大洋』はやっぱり『行くぞ大洋』だ。三鷹さんの美声と選手の力強い声、チャッピーズの可愛らしいコーラスが相まった球団歌は大洋のチームカラーにマッチしていた。横浜での試合前には球団の宣伝カーがこの曲を流しながら関内界隈を走り回っていたこと、試合前の1-9と合わせて歌ったこと、他球団ファンの友達に「♪弱い大洋 弱い大洋」と替え歌で馬鹿にされたこと。この曲への想いは、大洋ファンみんなが持っていることだろう。

 しかし1992年末、球団は企業名を外して横浜ベイスターズへと生まれ変わる。そして『行くぞ大洋』も「栄えある歴史 大洋ホエールズ」の終焉と共に球団歌としての役目を終えた。その期間は16シーズンと短かく、チームもずっと弱かった。でも、だからこそこの曲は今でもスタンドで歌い継がれているのではないか。『行くぞ大洋』は長くこの球団を愛する者にとってのソウル・ミュージックである。我らの誇りである。

「今までいろんな歌を歌ったけど、『行くぞ大洋』は作曲も手掛けた分、愛情もひとしおですよ……。何年か前に、別の用事で関内駅を降りたら自分の歌声が聴こえてくるわけ。なんだなんだ?と驚いていたらその日はスタジアムでホエールズの復刻デー。それで『行くぞ大洋』が流れていたの。そういうイベントをベイスターズがやってくれるのは嬉しいし、機会があればもう一度皆さんの前で歌いたいよねえ」

 そう話す三鷹さんは、ホエールズにとってもうひとつ大きな仕事を成し遂げている。そのあたりは次回、後編にて。

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