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ベイスターズ追浜移転で思い出す、横須賀にあったもう一つの二軍球場のこと

文春野球コラム ウィンターリーグ2018

2018/12/21

 11月19日、横浜DeNAベイスターズからファームの新施設の詳細が発表された。その名も「DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA」。ファーム本拠地・横須賀スタジアムがある追浜公園内に新しい選手寮と屋外・屋内練習場が整備中で、2019年夏にオープン予定だ。さらには京浜急行、横須賀市と協定を結び、地域活性化やファン拡大を目指すという。その一環でさっそく最寄りの追浜駅のメロディーが『熱き星たちよ』に変更され、筒香嘉智やラミレス監督らの写真入り駅名看板が設置されている。

 追浜にファーム施設が集約されると、長浦のベイスターズ総合練習場と青星寮はお役御免となる。1986年、元々大洋漁業の工場だった場所にグラウンドが作られて以来30年余り、野球好きにとって横須賀はベイスターズのもうひとつのホームタウンとして、近年ではヒットメーカー秋山翔吾の出身地としても知られるようになったが、そのはるか昔に、ある球団のファームが横須賀を拠点にしていた事をご存知だろうか。

横須賀にあった武山球場の思い出

 横須賀と言ってもさまざまな表情がある。トンネルを抜ければ海が見えるのも横須賀だし、急な坂道を駆けのぼったら海が見えるのも横須賀。だがそのチームがあったのは米軍ベースやドブ板通りから遠く離れた市南西部の武山という町である。筆者は1983年から93年まで10代をこの地の新興住宅地で過ごしたが、少し歩けば田んぼや畑が広がり、夏になるとカエルの鳴き声がゲコゲコ響き渡るのんびりした土地だ。実際に標高206mの武山という山もある。

 武山地区には今も昔も鉄道が通っていない。最寄りの駅はバスで約20分の横須賀線衣笠駅だけど、本数が少なく、遅く、運賃も高い。横浜や東京に行く時は横須賀中央駅までもう15~20分バスに揺られ、ガンガン飛ばす京急の快速特急に乗る。一番近い横浜スタジアムでも家からざっと1時間半はかかっていた。

 そんな場所にあったのはヤクルトの二軍球場だ。サンケイアトムズ時代の1968年1月末、武山の麓の京浜急行所有地に武山球場がオープン。そこを練習場およびファーム本拠地として使うようになった。しかも同年の一軍春季キャンプまで行う熱の入れようである。三浦半島は冬でも暖かく、東京都心や横浜で結構な雪が降っても京急に乗り、追浜から連続する11のトンネルを抜けて横須賀中央に着いたら普通の雨なんてのが当たり前。その温暖な気候を見込んだ部分もあったと思うが、この年に限って武山も記録的な大雪に見舞われてしまう。何日もグラウンドが使えない日が続き、やむなく三浦市内の体育館を借りるも、周辺道路が大渋滞で通常なら20~30分で着く津久井浜の宿舎まで数時間かかる始末。これに懲りてか翌69年は大分県の佐伯、70年以降は鹿児島県の湯之元にキャンプ地を移し、武山キャンプは1回限りに終わった。

1968年から9年間ヤクルトのファーム本拠地および練習場だった武山球場

二軍落ちは“島流し”

 それでも、今の広島カープ由宇練習場と同じく街から遠く離れ、三浦大根やスイカなどの畑に囲まれた武山球場は文字通り“ファーム”の鍛錬の場として機能していた。なにせアトムズは国鉄スワローズ時代から自前の練習場やファーム本拠地がなく、その前に練習場として使っていたのは横浜・大倉山の芝浦工大球場。ホームゲームは各地を転々としていたのだから、専用練習場と試合ができる球場を一挙に得たことで、ようやく安住の地を得た感があっただろう。

 もっとも一、二軍を頻繁に行き来する選手やスタッフは大変で、当時の週刊ベースボールに二軍監督の田口周(後の球団社長)が武山での練習後に三浦海岸駅から電車で神宮のナイターを観に行く様子が載っているが、おそらく往復4時間近くかかっていたのではないか。仮に自動車を使っても、当時は横浜横須賀道路が存在しないので下道を延々と走るほかない。ゆえに武山球場から海の方に下った三浦市上宮田の寮とは別に、東京・中野にも寮があった。

 武山球場は76年まで9年間使われ、翌年から新しくできたヤクルト戸田球場と戸田寮に移転することになった。週刊ベースボール76年11月8日号によると、武山球場最終戦は10月21日のイースタンリーグ、ヤクルト-ロッテ戦で、ヤクルトが勝てば首位巨人を逆転して優勝する大一番。しかし1-2で惜敗し、試合後予定されていた祝勝会は球場サヨナラパーティーに変更。アルコール自由の大無礼講だったという。記事には「調子が悪く二軍に落ちる一軍選手にとっては“島流し”と感じてしまうほどの辺ぴなところにあるが、正味9年間、武山なりのドラマを生んできたものだ」と記されている。