「俺にとっては巨人よりもホークスなのよ」
「その記者は巨人に行けるんですよ、良かったですねという意味で“おめでとう”と言ったと思う。相手は中畑(清)さんで1対1だとも教えてくれた。でも、俺にとっては巨人よりもホークスなのよ。練習後に中百舌鳥から球団事務所に電話を入れて、フロントの上の人と繋いでもらった。そこで訊ねたけど、当然しらばっくれるよ。でも俺は言うたのよ。『事実はどちらでもいい。だけど、もし南海が僕を要らないというのならパ・リーグに出してもらえますか? ひと言だけ付け加えさせてもらいますけど、俺のピッチングはご存知ですよね。来年からホークスと対戦したら、もっと激しく行きますからね』と。ハッタリだった。でも、本音だったよ。俺は本音しか言えん性格だから(笑)」
もし、山内孝が巨人で、中畑清がダイエーに来ていたら、その後のプロ野球の未来は全く変わっていただろう。それから数日後、その記者が山内孝のもとにやって来た。「トレード無くなったらしいですよ」。山内孝も「そっか」とただしらばっくれるのみだった。
「そんなことがあって、迎えた福岡ダイエーホークスの初年度の'89年だった。開幕戦はビジターの東京ドームで日本ハム戦。俺は開幕投手を任されて4安打完投したけど、最後にサヨナラホームランを浴びて6失点で負けた。ものすごく責任を感じたよ。だから平和台の初戦は俺じゃないと思っていた。だけど杉浦(忠)監督は『九州の1戦目、オマエが行かなきゃ誰を投げさすんだ。九州のエースはオマエや』と言ってくれた。ホークス、そして杉浦さんの思いに応えにゃ男じゃない。魂をかけて、自分の人生をかけて、1球目から始まったのがあの平和台の西武戦だった」
1000万円近くかけられた華やかなセレモニーも、その時に小雨がパラついていたこともあまり覚えていない。とにかく集中していた。試合は5回までに河埜敬幸とアップショーのタイムリーで2点をリード。しかし6回表、石毛宏典にソロを浴びた。1点差のまま迎えた終盤の8回表、山内孝はそこを一番鮮明に覚えていた。
「クリーンナップから始まる攻撃。3番秋山(幸二)をショートゴロ、4番の清原(和博)にも内角をガンガン攻めて三振にとった。1球1球投げるたびにこぶしを突き上げて、吠えていた。パフォーマンスなんかじゃない。自分の魂がそのまま出ていた。石毛はエラーで出塁したけど、最後はバークレオを三振。1球たりとも逃げた球はなかったな」
勝利への執念を燃やし精魂込めた投球を見せた山内孝は、そして勝った。半分以上が青かったスタンドが「ホークスやるじゃないか」という雰囲気になった。
あの日の試合後、「福岡にまだたくさん残っている西武のファンを、これからはホークスのものにする」と語った山内孝の思いは年月を重ねるごとに現実となった。平和台の外野席は青の面積が少しずつ減っていき、ダイエーメガホンのオレンジと黄緑が増えていった。あの日投げ合った現ホークスの工藤監督も「左翼席の方までダイエーの色になった時、ここはもうホークスのフランチャイズになったなと思った」と懐かしむ。
山内孝は現在、東京MXテレビのホークス戦中継で解説者を務めており、他の評論家にはないユニークな言い回しで野球ファンを楽しませている。また、コーチをしていた時期もあるため現在の主力投手たちの多くは教え子だ。武田翔太などは「オヤジ」と呼んで慕っている。
今もひげは健在だが、もう鬼の形相は影をひそめている。ニコニコと我が子を見守るような優しい顔で、2019年の節目の年を戦う“息子”たちに今年も期待を寄せている。
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