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「さばきのアーティスト」久保利明は、なぜ痛恨の敗戦の翌日に将棋盤と向き合えたのか

「さばきのアーティスト」久保利明は、なぜ痛恨の敗戦の翌日に将棋盤と向き合えたのか

久保利明九段インタビュー『最後の鍵を探して』 #1

2019/06/01
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 立石径さん。

 あの村山聖九段に続く関西棋界の逸材といわれた、伝説の奨励会員である。

 久保、立石さん、矢倉規広(現七段)の3人は「関西の三羽烏」と呼ばれ、研修会を経て同じ年に奨励会に入った。

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 その3人の中で誰よりも早く三段になったのが立石さんだった。それなのに17歳という若さで、自ら奨励会を辞した。17歳で三段になれる奨励会員の方が遥かに少ないというのに……。

 修行中の身分ということもあり、奨励会にまつわる話はあまり表に出ることはなく、それだけに真偽不明の伝説も多く世に流布している。当事者に取材してみると、尾鰭が付いた話だったということも多い。

 しかし「医者になる」と言って奨励会を辞め、猛勉強の末に21歳で神戸大学医学部に合格して本当に医者になったという事実は、立石さんが将棋界で残した伝説の数々も同じように事実だったと思わせる説得力を持っていた。

 立石さんのことは『将棋世界』誌に掲載された上地隆蔵さんの『“元奨”の真実』という連載に詳しく記されていて、それを読んだ私は、自分の作品に立石さんの伝説をモデルにしたエピソードを登場させたこともある。

 その立石さんについて、久保の口から直接聞けるとは……。

©文藝春秋

心にポカンと穴が開いたような

――立石さんが辞められたときは、やはり大きなショックを受けられましたか?

「そうですね……心にポカンと穴が開いたような。びっくりしたというか……驚きました」

――すごい方ですよね。タイトル戦の記録係をしている時に、対局者の谷川先生ですら見逃していた23手の即詰みを発見したという伝説が残っていたり……。

「そうです。そうです」

――一緒に研究会をしていたという井上慶太九段も、自分はもうプロになっていたのにあまり勝てなかったと。

「井上先生には僕も立石くんも奨励会有段者の頃から教わっていて……『あの頃は立石くんの方が強かったけどなー』って。今でも言われるんです(笑)」

――退会のことは、ご本人から直接?

「僕は……矢倉さんからの電話で聞いたんです。『聞いてる?』『いや聞いてない』『実は……』『えっ!?』って。黒電話の前で『えっ!?』って声を出したのを、今でもはっきり憶えています」

――久保先生には言いづらかったのでしょうか?

「僕だけ兵庫県に住んでいて、2人は大阪でしたから……そういうのはあったかもしれませんけど……。

 でも、三段リーグでちょっと前にやってるんですよ。将棋を。『おっかしーなぁ?』と思って。何か、ぜんっぜん将棋が違うなと思って。僕が圧勝するんですけど。多分その時からもう、辞めると決めてたんじゃないでしょうか」