1996年(平成8年)2月14日。この日は将棋界では羽生善治六冠が谷川浩司王将を破って七冠独占を達成した日として記録されている。
現在、将棋界には竜王、名人、叡王、王位、王座、棋王、王将、棋聖の8つのタイトルがある。叡王は2017年にタイトル戦に昇格したので、1990年代は「七大タイトル」だった。
全冠制覇には1年通してタイトル戦で勝ち続けないといけない。将棋の技術だけでなく、体力や精神力も重要になる。タイトル戦が5つの時代に、大山康晴十五世名人が独占したことはあったが、7つは無理だといわれていた。
1年半で立場が入れ替わる
1992年2月、29歳の谷川は竜王、棋聖、王位、王将の四冠王となった。最も充実していた時期だ。当時、谷川はリップサービスの意味も兼ねて「一瞬でいいから7つのタイトルをすべて制覇してみたい」と言ったことがある。このころ、羽生が持つタイトルは棋王のみ。高い勝率で活躍していたが、まだタイトル戦の中心にはいなかった。
ところが、羽生が蓄えていた力を爆発させる。次々とタイトルを獲得し、1993年8月に五冠王となる。谷川は王将のみ。わずか1年半で立場が入れ替わった。二人がタイトル戦で対戦すると、際どい内容なのに、羽生が制していく。このころから羽生の七冠を期待するムードが生まれてきた。
七冠の砦として、神戸代表として戦う
そして、羽生は1994年末に史上初の六冠王となると、次いで第44期王将戦で谷川への挑戦権を得て、前人未踏の七冠に挑んだ。1995年1月から行われた七番勝負。第1局のあと、神戸在住の谷川は阪神淡路大震災に見舞われる。避難しながらの奮闘で、七冠最後の砦というだけでなく、神戸を代表する一人としても戦った。棋史に残る激戦は、最終第7局にもつれた。「こうなったのは自分の責任だから、最後まで責任を取って、自分で決着をつける」と第7局を前に語った谷川が千日手(引き分け)の末に制して防衛。
羽生といえど、六冠を維持すること自体が大変なので、七冠独占は困難に思われた。ところが、羽生は六冠を保ち続けて第45期王将戦で七冠に再挑戦。勝率は8割を超えていた。いまをときめく藤井聡太七段も8割以上の勝率を挙げているが、このときの羽生はほとんどがタイトル戦だったことが特筆される。タイトル挑戦者は、そのときどきで勢いのあるトップ棋士ばかりだ。それをことごとく打ち破って8割超の勝率だから、いま振り返っても驚異的な勝ちっぷりとしか言いようがない。