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連載昭和の35大事件

「彼がいれば東条の時代は来なかった」真面目なインテリ軍人・永田鉄山はなぜ殺害されてしまったのか

永田が生きていれば歴史は違った

2019/08/11

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア, 国際, 歴史

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三月事件と十月事件は本当に永田鉄山が計画したのか

 いわゆる三月事件は、未遂に終ったクーデター計画のことであるが、永田を攻撃する者の異口同音する点は、この事件の起案者は永田だということである。そして、これは広く信じ込まれた問題のようであるが、私が今迄に調べた限りでは、否定的な材料の方が多いようだ。過日も荒木貞夫氏に会ったので、この点を確めたところ、荒木氏は、永田起案説は事実だと思っておられるようだった。問題の文書、すなわち永田の三月事件計画案なるものを、荒木氏は持っていられるそうで、私は一度見たいと思っていたが、本稿を纒めるまでに、時間がなく、その機会を得なかった。

荒木貞夫 ©文藝春秋

 そこで問題になるのは、この永田文書の真偽であるが、いま私の手許にある永田の手紙類や、起案書類などを一見すると、彼は無類の悪筆家で、甚だ癖の多い書体だから、荒木氏がもっておられるという永田文書は、私にでもすぐわかるだろうと思う。だから多年永田を部下として使われた荒木氏の言葉は、事実として疑う余地はないようである。

 しからば、永田は本当に三月事件を起案したのかという問題になると、色々とわからぬ経緯が出てくる。まず、当時彼の部下であった数人の人々に聞いて見ると、皆申合せたようにこれを否定し、積極的に肯定する者の間でも、精々メモ以上の文書とは見ない。この点では、永田とは同期生で、小畑敏四郎とともに、陸軍の三羽烏と謳われたA元大将も同様、永田の起案など、あり得ないことだと強く否定される。ところが、当時仕事の関係で、深い交友のあったB元大将によると、少し話が違い、そしていくらか事態がはっきりしてくるようだ。B氏の話によると、永田は青年将校への関心が強く、若い人たちの間でもまた永田への期待が大きく、それでB氏等も加わり、時局研究のような会合を重ねていた。その何回目かの会合で、大体の議論が出つくし、それを結論的に永田が皆の前でまとめたことがある。それは自分も知っているが、荒木氏の手許にあるという永田文書は、それではないかと思う。第一に考えても見給え、思慮は人一倍深い永田が、本当に自分で起案したものなら、そんな物騒な文書なぞ、金庫の中に置きっ放したままで、後任の山下奉文などに引継ぎはしない筈だよ、というのである。

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 この三月事件に次いで起ったのが、十月事件であるが、まず、この事件に永田が無関係でいること、話は聞いていたかもしれぬが、計画に参加してはいなかったことを、明らかにしておきたい。そして、この頃から、ずっと永田に師事していた池田純久と、後に田中メモで知られる田中清の両氏が、10月15、6日の頃であったろうか、参謀本部作戦課長の今村均大佐を訪ね、橋本欣五郎中佐を中心とした一派のクーデターの計画を打明けている。

昭和30年代に『文藝春秋』に登場した池田純久(左)と今村均(右) ©文藝春秋

終始、非合法否定論者として動いていた

 そしていま、彼等のクーデターを抑え得る人物は、建川美次少将以外には、見当らない。橋本等は、建川も自分たちの仲間だと、思いこんでいるようだから、建川なら聞くと思う。ひとつ貴官から、建川を説いて止めさせるようにして貰いたいというと、今村は同意して、直ちに建川を訪ねて、この話をすると、建川も同意して引受け、翌日橋本中佐を呼んで抑制に努めたそうである。

 ところがまた間もなく、根本博、影佐などという、橋本中佐とは仲間と見られていた人たちが、今村大佐に、橋本が建川に中止すると約束したのは、みんな噓だ。決して中止なんかしないから、どうしてもこれは、憲兵の力で、保護検束でもするより仕方がなかろう、という話である。そして橋本の外、さらに13名の将校の名前が出て来たが、これはまだ生存中の人もいるから、発表は見合わせておきたい。とにかく、根本や影佐等は、これを捕えるよりほか、抑える途なしというのだ、このとき、永田も、また東条も同じように、憲兵保護検束論を力説しているから、面白いものだと思う。

 そこで止むを得ず、その日の午後5時頃から、陸軍省と参謀本部の部局長会議を開いて相談したが、結局、憲兵によって検束するということに、全員一致したらしい。しかし、この決定に対して荒木氏一人が、絶対に承知しない。何と説いても、どうしても承知しないので、荒木氏のいわゆる人情論も、御尤もだから、という説も現われ、それでは荒木さんに行って貰って、彼等の説得役を引受けて貰おうということになり、荒木氏もこれを快く引受けた、そして築地の金竜亭に、荒木氏と岡村寧次が一しょに行き、2時間ばかり話し合ってから、漸く4日間だけ決行日延べということに、落ちついたという。

 荒木氏から経過を聞いた部局長会議は、ともかく3日間に何とか事件を処理することとしたが、間もなく大臣官邸の小使が、今村大佐の所へやって来て、こんな名刺を置いて行った人があると言って、届けて来た。この夜おそく、11時半頃だったそうだが、見ると、うら側に、「荒木閣下に約束したことは噓なり、」と書いてある。誰がこんな名刺を届けたかはわからぬが、さすがに今村氏も驚いて、さっそく永田と東条とに会って見せた上、どうしたものか、と相談した。永田はこのとき、憲兵で保護するほか、もはや処置なし、直ちに大臣に報告せよ、と力説したらしい。今村氏も同感して、遂に南次郎陸相を訪ね、その手配をしたということだ。これが、昭和6年10月17日夜明けの検束となった一こまであるが、この経過に関する限り、永田は、終始非合法否定論者として、動いていることが明らかである。