解説:「真相発表」にも漂う謀略の名残り
この手記にも謀略の名残りを感じる。興味深いが、1つの説と理解した方がよさそうだ。
盧溝橋(当時は本文のように「蘆溝橋」と表記されたが、その後「盧」が正しいと判明)は、探検家マルコ・ポーロの「東方見聞録」にも登場する北京郊外の月の名勝地。そこで事件が発生する前の日中関係は、1933年の塘沽停戦協定で「満州事変」が終結。外交的には和平の動きがあったものの、日本軍は華北5省を中国から切り離す「華北分離工作」を進めていた。中国側では、36年の「西安事件」を転機に、内戦を続けていた国民党軍と共産軍の間で第2次国共合作の動きが進展。盧溝橋事件を“触媒”に、2カ月余り後の9月に合作が成立する。
策謀が渦巻き、突発事態がいつ起きてもおかしくない情勢だったといえる。発砲事件そのものは現地交渉で決着がつきそうだったが、「この際、一撃を加えるべし」という関東軍の強い意向がその後の日中全面戦争への拡大を招いた。
端緒については当初からさまざまな見方がされた。張作霖爆殺や柳条湖事件(満洲事変)同様「日本軍の謀略では?」とする推測や、発生は偶発的との見解も。中国共産党の謀略工作という説も当時からあった。しかし、歴史家・秦郁彦氏らの研究で、中国軍が発砲し、それを奇貨とした日本軍が攻撃を拡大した、との見方が主流に。ただ裏付けはなく、歴史の真実はいまも闇の中だ。
手記は「当時大アジア協会理事として現地に飛んだ筆者が真相を発表」という見出しだが、「大アジア(亜細亜)協会」とは、1937年12月の南京虐殺事件の責任を問われて戦後の東京裁判で死刑になった松井石根陸軍大将らが1933年に設立した団体。近衛文麿、広田弘毅、荒木貞夫らがメンバーで、「世界的な平和機構の樹立」「アジア人のためのアジア実現」「日中親善」などが活動の趣旨だった。しかし、当面の本音は「満蒙における日本の権益拡大」だったと考えられる。
筆者の中谷武世氏は法政大教授や大亜細亜協会の前身である「汎アジア学会」の設立後、衆院議員に。戦後は岸信介元首相の外交ブレーンだったとされる。彼を呼び付けた和知鷹二陸軍中佐はその後、上海を舞台に「蘭工作」を展開。中国側との和平交渉の一角を担当した。さらに、この手記が掲載された55年は保守合同が成って「55年体制」が成立した。
それらを考えれば、「日中全面戦争の発端は中国共産党の策謀」という歴史観が浮上する。具体的な説明はなく、「突発事件でなく実は中共の周到なる抗日運動の表れであった」とする断定も、柳条湖事件と対比した「逆の九・一八事件」という指摘も、一方からの解釈と見るべきだろう。
盧溝橋事件が、太平洋戦争で最も愚かな作戦といわれたインパール作戦につながる、と言うと不思議に思われるかもしれない。作戦を強行した“立役者”牟田口廉也中将は、盧溝橋事件の際、現場の当該部隊の連隊長。のちに「自分が始めた戦争を、自分の手で終わらせたい」と語り、インパール作戦成功による戦局展開に異常なほどの執着を示したとされる。そうだとすれば、盧溝橋事件への個人的な思いが、悲惨極まりない戦場と餓死した兵隊の白骨街道を生んだことになる。
小池新(ジャーナリスト)