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「またやったな」日本軍計画とされた盧溝橋事件の第一報

 当時日本では、蘆溝橋事件勃発の報を聞いて、「またやったな」という感を持ったひとが尠くなかった。「またやったな」とは無論日本の軍部がまたやったな、ということである。

 これは満州事変以来、日本軍部の手によって起された謀略的事件の連続から、一般にそう思い込むようになったのであって、「西園寺公と政局」という書物、所謂原田日記なるものを見ても、当時如何に原田熊雄や上層部の人達が、「またやった」と思い込んで、軍部を抑えるために駈けずりまわったかがよく現われて居る。

 重臣上層部がそう思い込んだばかりでなく、また外務省関係や海軍側がそう思い込んだばかりでなく、当の陸軍の中央部さえが、少くも事件勃発直後は、我が方の現地の仕事だと思い込んだのだから反対である。殊に、軍部の幕僚の中でも石原莞爾や、片倉衷や、会田新太郎等は、和知と共に満洲事変で事を共にした仲間である。

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1933年5月31日の満州事変終結を報じた東京朝日新聞号外

 手口は先刻自分達のもの、あれをまたやったな、と邪推するのは或は無理からぬ話で、当初は此の推測を前提として極力出先――然り、彼等も曽つては満洲の出先として中央を手古摺らした――を抑えようとかかったのである。

先に情報を掴んでおきながら対処できなかった日本軍

 大局的に対ソ戦略といふものを重視し、満洲国の建設に焦点を置いて一切の努力を之に集中すべしとする見地から、支那本土に事を起すことを極力回避しようとした石原等の識見は大いに買うべきであるが、当時中共の活動に対する研究不足で、蘆溝橋事件そのものをさえ出先の仕組んだ謀略なりとする誤った認識を、少しも一時的にせよ、前提として居た関係上、それが現地と中央部との意見の喰い違いのもととなり、中央部に於ても和知等の見解を支持する杉山陸相と石原の言を聴く多田参謀次長等の意見の対立となり、更に重臣上層部、海軍側一団となって陸軍と反目するなど、方針の混乱とセクト主義の増大を助長し、之がやがて事変処理の失敗と太平洋戦争の敗戦の一つの大きな原因となって後日に禍の跡を曳く結果となったのである。

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 斯様な情勢を100パーセントに利用したのが中国共産党であり、事件を起したことの責を日本に稼しつつ、日本を大きな消耗戦に捲き込み、南京政権を抗日戦に駈り立て、抗日連合戦線を強化しつつ飽くまで事変を長引かせ結局中共独り漁夫の利を占めて戦後に共産政権を擁立するという周到なる革命方略を、当時の北支の事態に即して綿密に実施したのであった。これは十二分の成功を以て此の方略の実践に当って劉少奇が戦後中共政権の成立と共に副主席の要位に推されたこと蓋し偶然ではないといわねばならぬ。

 流石に日本の現地軍部も、いろんな情報や現実の諸兆候から、共産党の触手をキャッチし之を中央にも進言したのであるが、中央は上述の如く我が方の出先軍部の強硬論(?)なるものを抑えつけるに急であって、通洲事件の勃発の報に、始めて愕然として中共の工作の深刻さに気のついたときは、既にあまりにも手遅れであったのである。