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連載昭和の35大事件

太平洋戦争へ続く「盧溝橋事件」の火種はなぜ燃え上がったのか――周到に“用意されたシナリオ”とは

蘆溝橋事件は当然起るべくして起ったのだ

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア, 国際

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用意周到に計画されていた行動

 広安門の変は、彼我の間の平和的交渉も既に最後の糸を絶たれたことを示すものとして、香月司令官も遂に天津軍の総力を挙げて北京の南苑及び西苑附近に在る二十九軍を攻撃するに決し、27日東站停車場から続々兵力の輸送を開始したのである。

 天津に残したものは僅かに歩兵及び工兵の各一個小隊と航空整備兵の若干だけで、出動させ得る限りの兵力を南苑に指向したのである。

 私は東站停車場に我が軍の出動を見送りに行って、国際停車場として、当然来て居ても不思議はないが、駅へ来て居る英吉利や仏蘭西の将校が、何喰わぬ顔で我軍の車輛や馬匹の数を目測で点検して居るらしいのを見て、我が兵力の移動が彼等を通じて支那側に洩らされたら大変だな、と素人考ながらも密かに憂慮したのであったが、此の私の心配が当ったか、或は如何なる経路で日本軍の残存兵力の微弱を察知したか、29日の払暁、支那側の正規軍、保安隊、学生軍の混合部隊が我が方の手薄に乗じて突加、天津日本租界を襲撃し来り、あわや今少しのところで、殆ど時を同じくして実行された通州の襲撃事件と同じような惨害のドン底に、天津の日本人街全体が追い落される瀬戸際であったのである。

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 残存小部隊の決死の奮戦と山海関から急を聞いて飛来した航空部隊の来援によって、間一髪の危機を救われたのである。私が身近に実戦を体験したのも此の時が始めてである。

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 冀東自治政府の在った通州の保安隊の叛乱は、右の天津の襲撃、及び順義、密雲等の襲撃と同一時刻に同一計画の一環として遂行されたものであって、冀東政府の主席の殷汝耕は叛乱軍に拉致された。

盧溝橋事件は「逆の九・一八」事件

 此の通州事件も、天津の襲繋事件も、日本側からいへば、不測の突発事件であったが、支那側からいえば、前述の如く周到に準備され計画された予定の行動であり、共産党の工作の一連の成功を示すものである。

 また天津日本租界の襲撃にしても、正規軍だけでなく之に学生部隊が加わって居たこと――私は南海大学に属する学生部隊を掃蕩するため日本軍の飛行機が銃爆撃を加えるのをまのあたり目撃したが、これから推しても、抗日人民戦線の計画的行動であることが判断される。之等の諸事件と蘆溝橋事件とを併せ考えるとき、事変の真相は自ら判然として来るであろう。

 且つ此のことを傍証する奇異な事実は、通州事件が午前2時に行われる前日の、即ち7月28日の夜の東京のラジオニュースに、「通州は叛乱した。冀東政府は20箇月3日の運命を以て既に潰滅した、殷逆汝耕――逆賊段汝耕――は拉致せられ、日本人は全部保安隊包囲の裡に在る」と、時間的にはまだ実行もされない通州の叛乱を予報するような放送を行って居ることであるが、之は通州保安隊叛乱を使嗾し督励する政略的ニュースであると考えられると共に、如何に周到な準備の下に之等一連の叛乱や襲撃が予め計画せられたかを証明するものであった。柳条溝、満洲事変の場合とはすべてが逆である。蘆溝橋事件は、支那側自らが左様に称し左様に意図したばかりでなくあらゆる角度から客観的に観ても、間違いなく「逆の九・一八」事件であったことは明かである。

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※記事の内容がわかりやすいように、一部のものについては改題しています。

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