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連載昭和の35大事件

太平洋戦争へ続く「盧溝橋事件」の火種はなぜ燃え上がったのか――周到に“用意されたシナリオ”とは

蘆溝橋事件は当然起るべくして起ったのだ

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア, 国際

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抗日精神を煽動した一連の事件

 斯くの如く、西安事件、蘆溝橋事件、通州事件は、それぞれ相連関する中共の工作の勝利行の一環である。

 1936年――昭和11年12月西安事件は、張学良の蔣介石に対するクーデターとして知られて居るが、このほんとうの史的意義は、中共主脳部、毛沢東や周恩来が張学良を操縦して蔣介石を剿匪即ち共産党討伐から抗日に転向させ、昨日まで仇敵であった共産党と国民党を握手させて抗日救国連合戦線を結成させたことに在る。

西安事件を伝える1936年12月12日東京朝日新聞

 所謂「一二・九デモ」――1935年12月9日北京で行われた学生団体の抗日大デモ――以来昻揚しつつあった「抗日人民戦線」の運動は、西安事件を契機として「抗日国民戦線」に発展し、学生、工人、兵士の間に浸透しつつあった抗日意識は、中共工作員の指導の下、華北に於ける日本勢力の掃蕩という具体的目標に向って、周密な組織運動を進めつつあったものであった。日本側が宗哲元や秦徳純等の領将を相手に、反古に等しい幾多の協定を繰り返して居る間に、抗日意識に燃えた学生や青年は続々宋哲元麾下の第二十九軍の卒伍中に入り込み、自ら兵士となっていやが上にも抗日精神を煽り、遂に7月7日の蘆溝橋の一発となって発火したのである。

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 一二・九デモから西安事件に至る中共の手口を検し、南京延安合作の下に結び付けられた抗日連合戦線の当局の鋒先が何処に向いて居るかを看取し得たならば、蘆溝橋事件が当然起るべくして起った「逆の九・一八」――満洲事変なることを察知するに困難を感じないのであろう。

 私が天津に着いた7月22日頃は、私が香月司令官と宋哲元の間に仮の停戦協定が締結せられて、事態が暫く小康を保ちつつあった時であった。東京から、ひしめき合って馳せつけた新聞の特派員諸君も、此処2,3日は手持無沙汰で、或は伊太利租界のハイアライを遊びに行ったり、カフヱーでビールを呑んだりして無聊を消して居た。

 が、幾何もなくして此の小康は、廊坊の衝突事件から破られた。支那側の戦闘配置が略略完了し、共産党の浸透工作が既に末端にまで達したことの現われである。

 即ち廊坊停車場附近の電線修理の掩護に赴いた我が軍の小部隊に対し、二十九軍に属する優勢なる一部隊が機関銃と臼砲を以て痛烈なる攻撃を加え来り、為めに我が方に相当数の損害を生ずるに至った。

突然、機銃の銃口を向けられ……

 越えて26日には、彼我双方の諒解の下に豊台からトラックで北京城内に入らんとした我が一部隊に対し、部隊の約3分の2が広安門を通過し終らんとする際、突如として支那側は城門を閉じて日本軍を分断すると共に機関銃、手榴弾等を以て之に猛攻を加え来ったのである。

広安門事件を号外で伝える東京朝日新聞

 此の広安門の衝突に際して、我が軍に若干の死傷者を出すと共に、同行の新聞記者3名も負傷し、且つその時まで二十九軍の顧問として彼我の間に在って極力事態の緩和に努めつつあった桜井徳太郎少佐も、城壁の上で今の瞬間まで唯々として彼の命令に従いつつあった二十九軍の下士官から、機銃の銃口を向けられ、突嗟の間に横飛びに高い城壁から飛び降りて、負傷はしたが危い命を拾ったのであるが、彼の側に在った石川通訳は機銃を浴びて戦死した。

 此の数日後、私は和知と共に北京に入って、広安門戦闘の跡を観て、桜井の飛び降りた城壁の高さ約3丈と目測し、如何に戸山学校の教官時代から機械体操の名手として不死身を謳われた桜井にしても、よく助かったものだと舌を捲いたのであるが、直ぐその足で軍の病院に彼を見舞って、「大変だったね、しかし助かってよかった」とねぎらうと彼は股間と脇腹の傷を示しつつ、

「ウンニヤ、大したこたァ無か」と九州弁でにやにや笑って答えたのが、未だに眼に見えるようだ。終戦後消息を聞かぬが好漢桜井徳太郎今何処に在りや。