解説:記者も“病気”にかかる犯罪の魔力

 この「35大事件」には、事件の当事者か極めて近い人物によって書かれたものがいくつかある。ちょうど70年前に起きた「下山事件」についてのこの文章も、著者の加賀山之雄氏は被害者の後任の国鉄総裁(当時)。一部の国鉄関係者から「事件で最も得をした人」と評された。掲載は事件から6年後だが、まだ関係者も多く、配慮も働いたはず。読むには一定の予備知識が必要だろう。

国鉄の下山定則総裁

「帝銀事件」「松川事件」と合わせて「戦後3大事件」といわれるのが下山事件。朝鮮半島で緊張が続き、戦後間もない占領下の日本では保守と革新が鋭く対立し、世情は騒然としていた。下山、三鷹、松川と怪事件が連続したこの年の夏は、のちに「戦後史の曲がり角」とも呼ばれる。20万人に上る国鉄職員の首切り計画が浮上。労使交渉のさなか、矢面に立つ総裁が行方不明になり、翌日轢死体で発見された。衝撃的な事件は他殺説と自殺説が対立し、話題性は弥が上にもにも高まった。

 政府は、勢力を伸ばしていた共産党の関与を匂わせる「他殺」の見解を発表。解剖に当たった古畑種基教授率いる東大法医学教室が「死後轢断」と鑑定したことや、家族や友人らが「自殺する理由がない」と言明したことなどから、警視庁捜査二課と朝日新聞も他殺を主張した。

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 対して、慶応大の中舘久平教授が「死後轢断と断定できない」と判断し、現場周辺で下山総裁を見たという証言が多数あったことなどから、捜査を担当した警視庁捜査一課と毎日新聞は自殺説を採った。毎日の記者だった井上靖氏は翌年、自社の主張を基に小説「黯(黒)い潮」を書き、映画化もされて話題に。松本清張氏は米軍謀略部隊犯行説を「日本の黒い霧」で打ち出し、反響を呼んだ。

朝日は他殺説に立った報道を続けた

 警視庁は自殺とした報告書をまとめ、同年中に捜査を終結したが、報告書は公表せず、翌年「文藝春秋」などがスクープ報道。事件は政府やGHQ(連合国軍総司令部)を含めた複雑な思惑に揺れ動いた。いまに至るまで自他殺のどちらか、確定はされないままだ。

 他殺説には、松本氏らのように、実行犯として米軍関係を挙げる見方と、共産党関係を指摘する見方があった。加賀山氏は当初から他殺説を主張。この文章も共産党の関与をうかがわせるように読める。直面する労組対策など、政治的配慮がひそんでいることは否めない。関係者が少なくなる中、近年は、犯行に関与したとみられるグループを特定し、“逆算”して謎を解明しようとする手法が目立つ。1999年に「週刊朝日」で連載された内容を基に、関係した3人が2002~2005年にそれぞれ本を出したのがその例。

 帝銀事件の回で事件の洗い直し取材をしたと書いたが、中心は共同通信社会部の先輩の「茂サン」こと斎藤茂男氏だった。日本記者クラブ賞などを受賞した大記者で“ホームグラウンド”は「下山」。朝日新聞の矢田喜美雄記者(1936年ベルリンオリンピックの走り高跳び5位入賞選手)と連携。他殺説に立って取材を進めた。

 こうした大事件にはたいていマニアがいる。その条件は(1)被害者数や規模が際立っている(2)社会的な影響が大きい(3)未解決であるか謎がある――などだろう。マニアは事件に“ハマった”人たちで、強い関心から情報を収集して独自に推理する。茂サンも取材経験を回顧した本で「“下山病”にとりつかれて」「下山事件は不思議に人を魅了し、引きずり込む」と書いている。大事件にはそれだけ魔力があるということか。

小池新(ジャーナリスト)

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 事件当時の副総裁たりし筆者(加賀山之雄氏)が7回忌を迎えて始めて筆を執る下山事件秘録。

 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「下山事件の陰」

一口に「断定」できないその真相とは

 あれからもう満6年になる。命日に当る7月5日には芝の青松寺で7回忌の法要が営まれた。7回忌ともなると参拝者は施主の国鉄幹部達や近親、それに極く親しかった人々等に限られ、あれ程世人に衝撃を与えた事件も真相が究明されないままに忘れ去られようとしているのだ。時々、知人などから『あれは一体どうしたんですか、貴君はどう思うか』など訊かれて戸惑いするようなこともあるが、その度に私は所謂自殺説を強く否定して来た。一口にあれは自殺だ、或は他殺だと片づけて了えない所にあの事件の複雑性があるのだと思う。