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連載昭和の35大事件

「下山事件」の真相は他殺か? 自殺か?――側近が振り返るあの日の”後悔”とは

国鉄を愛する固い信念が燃えているように見えた

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア, 国際

note

下山総裁就任の序曲

 そういう嵐の中で定員法が国会を通過して国鉄は12万名近くの人員整理を行うことになった。それが昭和24年の春のことである。実はこれより先昭和21年の夏から秋にかけてまだ運輸省であった頃7万余の人員縮少を企てたのであったが当時の産別の応援というよりは徳田等の直接の指導で伊井弥四郎とか鈴木市蔵とか、後には共産党でかなりのものになった連中が国鉄に居って猛烈な抵抗をやり時の運輸大臣が少々ぐうたらだったりしてもう一歩の所で腰がくだけ整理が不能になって了ったことがあった。所謂九・一五といわれてこれで国鉄のたて直りも4、5年遅れたし、争議に勝利を得た労働組合を益々手がつけられないようにはするし、他の民間の事業の経営にも決してよい影響を与えず、ひいて日本経済の建て直りをそれだけ遅らしたと思っている。残念なことであった。

 人員を整理するということは勿論望ましいことではないが当時の国鉄には召集解除や大陸からの引揚げの為にふくれ上って60万を超す職員をかかえこんで置く余地は到底なかったので、経営の合理化の為に真に已むを得ない措置であり、それは早い程よかったのであった。そしてこの第一段の計画の蹉跌後は火のついた組合攻勢の反撃を食って政府が定員法の決意をする迄遂にその機会がなかったのであり、そしてそれが下山さんが一命を落す機会となって了ったわけであった。私はそれを思うだけでも昭和21年の争議の失敗は残念でたまらない。

下山事件当日、国鉄の人員整理を伝える朝日新聞

死に近づく「総裁就任」のいきさつ

 下山さんの死についてはもう一つ因縁話をしなければならない。それはこの私に関係があることで書きづらいのだが、氏が総裁になった当時のいきさつである。昭和23年の春運輸次官だった伊能君(繁次郎)が退いたので次官を作らねばならない。運輸大臣は改進党(当時国民協同党)の岡田勢一氏だったが鉄道総局長官だった私に次官をやって貰いたいという話があった。戦争中から運輸省は陸と海とを分けて一方は鉄道総局、一方は海運総局というように2本建てとなり夫々長官制をとっていたのである。

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 私はもともと鉄道に入ったのはその運営に強い関心を持った為であり監督行政にはあまり興味もなく経験もない。1度は辞退したがどうしてもというので致し方なくそのつもりになった。そこで岡田氏が内部的に一応そうきめて当時の習慣によってC・T・S(G・H・Q内の交通を監理する部門)にO・Kを得に行った処が一寸待てということで実は承知しないということが解った。色々アメリカ側に運動したり、あることないことを耳に入れたりする日本人が多かったことは承知しているが私はそのほんとうの理由は知らない。知る必要もなく却って本来の鉄道業務に専念出来ることを喜んだ次第である。