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 日華事変の口火を切った蘆溝橋事件は突発事件でなく実は中共の周到なる抗日運動の表れであった。当時大アジア協会理事として現地に飛んだ筆者(中谷武世氏)が真相を発表!!

 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「蘆溝橋の火蓋切らる」

盧溝橋で放たれた火種が第二次世界大戦へ発展していく

 セルビアの青年の放った拳銃の一発から第一次世界大戦の火が燃え拡がったように、蘆溝橋で放たれた一発の砲火が口火となって、戦火は支那事変、太平洋戦争、第二次世界大戦と拡大して、遂には日本の敗戦をまで運命づけたのである。然らば1937年7月7日の蘆溝橋の一発は誰が放ったか、支那兵か日本兵か、柳条溝事件と同じく、蘆溝橋事件も、日本軍の謀略によって仕組まれた事件の一つであると巷に喧伝せられ、世人の多くも未だにそれと信じて居る。戦前戦時に於て軍部の発表した報道に虚構が多かったと同じく、終戦後の言論や報道にもあまりに虚構と誇張が多く、「真相は斯うだ」に対する「真相は斯うだ」を必要とするほどに、殊更なる日本非難と自国誹謗に満ちて居いる憾なきを得ない。

 自分も聊か参画した北支新政権樹立運動の一端に触れて、体験を通じて知り得たありのままの真相を率直に書き記し、その間おのずから、事件の真相を探求して見たいと思うのである。

盧溝橋事件の第一報を伝えた1937年7月7日の東京朝日新聞

植民地国際都市・天津で見た異様な賑わい

 昭和12年の7月13日頃と記憶するが、私は友人の天津軍参謀和知鷹二中佐から、「直ぐおいで乞う」との電報を受取ったので、先ず近しい先輩の下中弥三郎氏に相談し、更に現地へ行ってからの心構えに資する必要もあって、その翌々日は、山中湖畔に松井石根大将を訪うてその意見を叩いたのである。

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 雨上りの暑い太陽がかっと大地に照りつける7月22日の午後私は一人で天津飛行場に降り立った。飛行場には、天津軍参謀の鈴木京大尉と和知公館の宇山青年とが出迎えて呉れて居た。

 鈴木大尉は、此の年の5月の臨時異動で、中央から北支へ所謂トバされて来た急進派の青年将校の一人で、中央に置くと何か又ガタガタやるというので、天津軍に転出させられた訳だが、焉ぞ知らん、此の鈴木京大尉こそ、いま一人の鈴木一郎少佐と並んで天津軍参謀会議の最強硬派で、且つ厄介なことには此の2人の若い参謀が前線指導を受持って居り、東京の軟弱を憤っていつも参謀長や高級参謀にハッパをかけて居た急先鋒で、不拡大主義の中央当局からいえば、大変な者を現地にトバした次第なのである。

 来て見ると天津は案外平穏で、見たところいつもと少しも変って居ない。台風の中心圏は静穏であるというが、蘆溝橋事件突発以来、国際政局の台風の眼である此処天津も、兵馬倥偬といった感じなど少しも現われて居らず、街には男女の群が雑踏し、店々には赤や黄色の広毛の旗が翻り、物売りの呼声と人力車夫のわめき声が喧しく辻々に交錯して居る。夜も盛り場や歓楽街の賑わしさは、一向平常に劣らず、キャバレー、ハイアライ、劇場、何処も満員の盛況である。

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 此の風景は――上海でもそうであったが――事変がもう少し先に進んで、彼我の戦闘行為が、その規模と凄惨さを増大して行った後でも、殆どその儘に継続せられ、三里先の戦場では悲風惨雨の死闘が展開せられて居るのに、河一つ越したこちらの租界ではキャバレーやナイトクラブの歓楽の灯が輝いて居る、という奇異な対照を示しつつあったものである。帝国主義特代の植民地国際都市が持つ異常な性格の反映とでもいうべきであろうか。