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連載昭和の35大事件

太平洋戦争へ続く「盧溝橋事件」の火種はなぜ燃え上がったのか――周到に“用意されたシナリオ”とは

蘆溝橋事件は当然起るべくして起ったのだ

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア, 国際

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深刻化していく情勢

 天津に着いて直ぐ和知から聴き得た事件の経過は、東京で自分が承知し且つ想像して居たところとは、あまり大きな違いはなかったが、ただ、中国共産党の手が思いの外深く二十九軍の兵士の中に伸びて居り、軍の各部隊に共産党員の督戦班が居てこれが次々と事をしかけて来る。だからどんなに日本が不拡大主義を取っても、また仮令南京が局地解決を望んでも――之も疑問だが――もうどうにもならない段階まで来て居ることを、現地で和知の口からなまに聴くに及んで予想以上に事態が深刻であることを知り得たのである。

1937年7月7日東京朝日新聞

「東京の連中は自分を拡大派の張本人のように云って出先さえ抑えれば片が附くように思って居るが、現地の事態を知らざるも甚しい、石原莞爾や片倉衷なども自分達が満洲でやった手口から、そして中央の抑制にもかかわらず却ってドンドン事態を拡大して行った体験から和知がまた同じ手口をやって居るのだろうという臆測に立って、俺を目の敵にして抑えにかかって居るが、無論大局的見地から今支那で事を起してはまずいことは自分は百も承知して居るが、だからこそ日夜苦労して居るんだが、中央の意見の不統一と方針のグラツイて居ること自身が、事態を拡大して居るので、閣議の模様や軍の内部の対立など、筒抜に支那側にわかって居るのだ。

 だから中央がもっと早期に一致して強硬方針に意見をまとめ、解決を現地に任せる、というやり方に出て呉れたならば、一応は事態を拾収する自信もあったんだが、今になると、もう何もかも手遅れだね」

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 と、沈痛な面持ちで中央に対する激しい憤懣を交えながら、此の人のいつもの癖として時々自嘲の笑を浮べつつ語ったが、聞いて居る私自身、眼に見えぬ大きな重圧が頭上に押しかぶさって来るような不安と焦燥に駆り立てられずには居れなかった。

計画的であり、偶発的でもあったと言える「盧溝橋事件」

 私は今ここで、和如参謀や当時の日本軍部の立場を弁護したり或は非難したりしようという気持ではない。また事変の原因や経過について理論的に叙述することも本稿の目的ではない。

 私はただ最初に述べたように、事変勃発直後の北支の渦中に在って自分が現実に体験したことを有りのままに記述して、そこから、事変の真相を知りたいと思うまでであるが、現地で、蘆溝橋事件に続いて連鎖反応的に継起した幾多の事件、通州の叛乱や、天津、密雲、順義等の同時襲撃等の経過に徴すると、抗日人民戦線の工作網が意外に深く二十九軍の兵士の間や保安隊の中に延びて居て、宋哲元が如何に不拡大を下命しようと、或は仮りに南京政府が如何に現地解決を北支へ厳命しようとも、もうどうにもならぬ段階にまで来てしまって居るとする観察を支持せざるを得なかったのである。

 端的に結論をいうならば、蘆溝橋事件は、共産党の工作班が仕組んだ仕事であって、日本軍が連日、宛平城附近で夜間演習をやって居ることを奇貨として、支那側からしかけて来た事件である。

 即ち一言にして云えば、柳条溝――満洲事変の場合と異り、蘆溝橋――北支事変の場合は、日本側が余りにも無準備、無計画であり、支那側正確にいえば中共側が、周到な準備の下に計画的に起した事件である。日本側から見れば、偶然的な突発事故であるが、支那側からいえば、仕組まれた計画的行動である。(近頃の呼称からいえば「中国側」と書くべきであるが、当時の気分を写す意味から、当時の呼称に従う)蘆溝橋で放たれた最初の一発は、二十九軍の兵士の中に入り込んで居た中共に属する学生の1人が発砲したのである。

©文藝春秋

 当時北支に於ける抗日、北支に於ける抗日人民戦線運動の指導に当って居たものは劉少奇であるといわれるが彼の周到な計画と指令通りに、「逆の九・一八」が、極めて巧妙に、それも日本が仕掛けたという擬装を100パーセントに成功させつつ遂行せられたのである。