昭和10年8月、兇漢相沢中佐に殺害された陸軍随一のインテリ将軍永田鉄山の悲劇を故人をよく知る政界の黒幕たりし筆者が描く

初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「永田鉄山斬殺さる」(解説を読む)

「永田殺害さる」正直なインテリ軍人はなぜ殺害されたのか

 陸軍省軍務局長永田鉄山が相沢中佐に殺害された昭和10年8月12日は、私が関係していた国策研究会の定例午餐会の日で、当日は永田軍務局長と池田純久中佐とが出席、講演をする予約があったのである。ところが正午少し前になって、「永田殺害さる」という、驚くべき電話が池田中佐からあり、さらにおくれて池田中佐ひとり出席、生々しい話を聞いた。私は、永田には3度しか会っていないが、正直なインテリ軍人だという印象を、強く持っていた。

永田鉄山 ©文藝春秋

 とくに彼が軍務局長として鮮満視察から帰った後、相沢に殺される十数日前だったが、一夜会食した席上で、関東軍の満洲国に対する内面指導は、早く打切る必要があり、また朝鮮は軍備と外交とを除き、国内自治を許す方向にもって行く必要を痛感したと語ったことである。永田によれば、満洲国と朝鮮はともに、将来は独立をも許容するがよく、そして日満鮮の間は、同盟で結合させる方策をこそ考究すべしというにあったと思う、私はこの話を聞きながら、軍人と話しているというよりも、大学教授と語っているような気がしたし、静かに落ちついて説く彼に、ありふれた軍人などのもたぬ当時としては異例の卓見を聞いたつもりである。

満洲国建国記念の様子 ©文藝春秋

 また、永田は軍人がよく国家革新を論ずるが、何を革新というのか、どうすることが、どんな方法と建設プランでやることが、国家を革新することなのか、さっぱり判ってはいない。重臣を殺したり、クーデターをやることは、もはや間違っているばかりでなく、危険でもあり、愚劣でさえある、しかし多勢の軍人のことだから、理論的にも確りした、建設的な具体案で、かつ漸進的で段階的に、かくすることによって革新出来るというものを、よく得心させる必要がある、といっていた。

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 こういう聡明な軍人が、今日まで世上に邪智奸侫の徒としてのみ知られ、そして当時の反対派だった人々により、現在にいたるもなお、憎悪と悪罵とが執拗に繰返されているのは、何故であろうか。

 永田が殺されて以来、これは私が暴い間抱いてきた疑問であった。もちろん彼の悲劇的運命に対する同情もあるが、しかし永田のためにというよりも、昭和政界を震撼した一暗黒事件を解く鍵としての意味で、この疑問は徹底的に究明されてもいい筈だと、私は考えている。