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連載昭和の35大事件

「彼がいれば東条の時代は来なかった」真面目なインテリ軍人・永田鉄山はなぜ殺害されてしまったのか

永田が生きていれば歴史は違った

2019/08/11

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア, 国際, 歴史

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「ズルイ林銑十郎」気の弱さと狡さを併せ持った鬼将軍

 永田がかような傾向をもったとしたら、神がかり軍人や、ウルトラ右翼に憎まれ、嫌われたとしても、止むを得ないとしたろう。そして彼がこの種の手合を軍部内から一掃すべく、強い闘争感をもったとしだら、反対派の憎悪が積極化するのもあたり前である。

 当時の陸軍で、荒木氏の精神主義的風格は、若い将校にとって尊敬すべき先生型であり、真崎氏の豪放はまた信頼すべき親分型であった。この先生と親分の名コンビを枢軸とした皇道派が、陸軍と政界とに一時期を劃した事実は大きく見るべきであろう。同時に、一世を風靡する勢いのあった荒木氏が、病気のために陸相を辞任の止むなきにいたり、その後任として、荒木氏や、柳川次官をはじめ、皇道派の精鋭を挙げて要望し、支持した真崎大将が、閑院宮を先頭に、結束した反皇道派の連合勢力によって、遂に阻止せられ、さらにその後間もなく、真崎氏が教育総監の地位から追わるるにいたった事件は、陸軍史上、あわせて昭和政治史上、充分検討せらるべきだと思う。

 まず順序として、それには林銑十郎大将の陸相就任の経緯に触れねばならない。林という人は一時鬼将軍のように伝えられたが、事実は温厚な人柄で、かつ遠慮のないところ、相当後入斎でもあり、気の弱さというか、狡さというか、それも適度にもっていたかと思う。

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林銑十郎 ©文藝春秋

陸相就任の条件として出した「真崎氏の教育総監就任」

 昭和9年1月、斎藤内閣時代、荒木陸相が病気となり、議会休会明けに出席不能ということで辞職、後任で、真崎大将を推す者と、林大将を推す者とで紛糾したが、遂に閑院宮の一断で林に決した。当時の次官は柳川中将これが間もなく橋本虎之助に代り、軍務局長が山岡重厚、これを3月異動で横にすべらせて整備局長、そのあとに運命の永田鉄山が就任。東条は、前年の8月久留米に出たまま。

 このときのも、荒木氏は、辞表を書くとき、病中わざわざ軍服を着、勲章をつけ、宮城を遥拝した上でサインしたというから、その人柄がわかろう。このとき後任問題で真崎大将を囲んだ柳川平助、小畑、山岡等の諸将による熱海会談が開かれており、そして真崎氏を強く押し出して来た。これに対して、松井石根、建川美次、南次郎等の諸将軍は、強く林を押し出して、真崎に反対した。このクライマックスが、1月20日夜、林と柳川との閑院宮訪問となり、その結果が、遂に決ったのである。柳川、宮様の前で、持ち前の剛直を発揮し、真崎氏は極力推したそうだし、林も、一しょになって、真崎氏を推したということだが、それで宮様に別室にいても聞える程叱られたという。それで、林は陸相就任の条件として、真崎氏の教育総監就任をもち出し、やっとまとまったそうである。この辺の林のやり方から、彼の狡さや、人の良さやを、皆が言うわけだ。