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連載昭和の35大事件

「彼がいれば東条の時代は来なかった」真面目なインテリ軍人・永田鉄山はなぜ殺害されてしまったのか

永田が生きていれば歴史は違った

2019/08/11

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア, 国際, 歴史

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「三井大牟田事件」で加速した永田鉄山斬殺まで

 永田の生命を縮めたもう一つの事件に、三井大牟田事件と、これに絡る満井佐吉中佐の問題がある。事の起りは、昭和7年から8年にかけて、北九州および久留米、大牟田等の各地に、各種の右翼団体が集結して出来た大日本護国軍等というものがあった。団員四万と号したが、組織は、今日の社会党に例をとると、支部長格を軍団長と称し、書記長に当る役を参謀といい、すっかり軍隊の真似をしていた。

 いくら真似をしても、民間人だけなら大したこともなかったろうが、これに久留米師団の連隊附満井佐吉中佐を中心に、片倉大尉や、多くの青年将校が参加していたから、喧しい騒ぎとなったのである。この団体を中心に、満井中佐を指導者として活躍した当時の模様を、少しばかり紹介すると、警察はすべて「特権階級の手先」と決めつけ、既成政党、財閥は「国賊」と罵倒するのだから、社会主義者顔負けの痛快ぶりを発揮している。

永田鉄山(少尉) ©文藝春秋

 当時下関にカゴトラ組というのがあり、市政と実業界を牛耳って、商議副会長、代議士だった保良浅之助を首領としたものだが、満井中佐は、この中心地に乗込んで大演説会を開き、「かくの如きゴロツキ共を退治せよ」と絶叫、市民の喝采を博したことがある。これが、8年の7月30日、大牟田における三井財閥と、市の商工会議所とが、長年の間抗争していた真只中に割って入り、会議所を支持して三井問責の大運動を起したわけである。その結果、満井中佐は8月1日附で、(陸軍)中央の新聞班に転任となった。それでまた大牟田の騒動を今度は東京へ移して、満井氏自から、三井本社を相手に糾弾運動を起し、当時の有賀長文、池田成彬を相手に散々手古摺らせた。軍服帯剣の将校が、三井八郎右衛門邸に押しかけ、長時間面会を強要したなどという事件も、また大牟田所長属最吉氏が、暴漢に襲われ、重傷を負うたのも、このときの話である。それで、かねて永田を知る者で太田亥十二氏という、池田の姪むこで東京ガスの重役が連絡に働き、永田と池田とが会見という場面などもあり、そんな因縁から、永田が、週末に太田氏の久里浜の別荘を利用するという事もあって、これがいわゆる、永田と三井財閥との結托云々となったのである。太田という人物は私も懇意にしているが、ブルジョアというより、今も昔も同じ一介の社員重役に過ぎす、ずぶの財界人というよりも、多分に浪人じみた風格が多く、感激居士で早合点をするくせがあるから、交際していた永田としても、周囲から誤解される一因にはなったであろう。それに満井中佐がまた、腹を立てるとジンマシンが出るといわれる位、感情の激しい人物であるし、中央転任後、一時永田に接近しようと非常に努力していたのが、池田、秋永、影佐などという、永田の周囲にいた人たちに拒まれて、失望したというようなこともあって、満井氏の皇道派への急傾斜があり、次第に、三井事件などもからみ、永田との間のもつれが激化したと考えられる。

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永田が生きていたとしたら、歴史は変わっていた

 以上のほか、永田が斬られる原因の一つとなったものに、十一月事件というのがあるが、これを簡単にいうと、当時三笠宮が士官候補生になったので、辻政信大尉が中隊長として懇望され、参謀本部から士官学校へ移った。この頃は革新運動の盛んなときだったので、士官候補生を利用されては困るということから、警戒は厳しかったようである。ところが、辻大尉の生徒の中に佐藤某という者が近歩一にいて、これが10月末頃他の候補生を誘い、磯部浅造、村中という革新将校を歴訪した。そうして11月中句、磯部や村中方から西田税に紹介され、大いに革新論をやったらしいが、佐藤方は、あまりに西田の生活の豪奢なのに疑いをもつようになって、遂に経過を辻大尉に報告したという。そこで辻大尉は直ちに片倉少佐に連絡をとり、この話を伝えた、そうして18日学校に行って調査した上、参本と陸軍省から次官、軍務局長等が参集、五・一五事件等の例もあるという心配から、関係者を処断して終った。このときの軍務局長が永田であるのはいうまでもなく、これが永田の皇道派圧迫と見られたのであるが、さらにも一つの理由として、辻大尉と、真崎大将の副官だった原田少佐との仲が悪かったそうで、この対立がまた永田の皇道派圧迫、とくに真崎排撃と結びつけられたというのである。同じような事件は、永田の下に高級課員となった武藤章中佐もまた、歩一附の時代、青年将校をきびしく教育するとともに、磯部、村中等を排撃する措置に出たという事実があるし、永田を支持する若い将校が、次第に各部局において、皇道派の実践将校と対立抗争を演じつつあったという。

 私は、永田は殺されねばならぬ理由はないと判断するのであるが、しかも当時の皇道派は、尖兵相沢中佐をして、いわゆる統制派の本営に永田を奇襲して斬らしている。永田亡き後の統制派は四分五裂したが、皇道派もまた、間もなく二・二六事件を起し、遂に軍部内からは玉砕し去って終った。そして、このあとに東条の時代を作っているのだが、永田が生きていたとしたら、軍部の歴史も、したがって日本のその後の歴史も、大分違うのではあるまいか。

二・二六事件の様子 ©共同通信社

※記事の内容がわかりやすいように、一部のものについては改題しています。

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