1ページ目から読む
3/6ページ目

政界に荒れ狂った「国体明徴問題」に違った見解を持っていた

 永田が惨殺されるまでの悪名をいろいろ拾って見ると、三月事件のほか、真崎甚三郎大将更迭事件や、十月事件、財閥との結托、陸軍パンフレット事件などによる「赤」だという非難等、ひっくるめて、これが皇道派や、相沢中佐等によると、「皇軍の在り方を紊乱する」存在だったから、というに尽きるようだ。

 永田の意図した国政改革が、国家総力戦形態の確立を基本としたものとすれば、これは大本営条例の改正を含めて、広汎なる軍政革新にも発展すべきであり、職業軍人だけの戦争でないとすれば、政治はもちろん、経済、社会と軍部との在り方についても、多くの反省と改革とを必要とすると、考えたであろう。

©iStock.com

 永田が軍人を民間クラブに加入させよう、と思いついたのも、原田熊雄や、唐沢俊樹氏等の「朝めし会」に誘われて出たのも、他を理解する努力とともに、自己をも理解させようと、そして必要なときには、政治的提携の円滑さなども、ねらっていたのかも知れないと思う。在満機構の改革の際、大野緑一郎氏が就任した特務部廃止後の顧問の地位に、はじめ大内兵衛氏を考え、有沢広巳氏をきに推そうとし、橋本次官の反対で中止を余儀なくされたという、(片倉元中将談)かかる永田の幅広く、そして思い切った人事方針も、彼がひそかに抱いていた計画の一端を示すものであろうし、これがまた部内に「赤」の風評を生み、ダラ幹の悪名をきた理由でもあったろう。

ADVERTISEMENT

 また昭和初頭の政界に荒れ狂った「国体明徴問題」についても、永田は違った見解をもっていたらしい。かつて中島久万吉氏が商工大臣として、足利尊氏事件を起して紛糾した当時、彼は池田政策班長に、軍部の見解を率直に声明するよう命じたそうだが、さすがの池田氏も、極右派への刺戟を慮って、遂にそのままの発表を憚ったそうである。(池田元中将談)

 思うに永田の心中、神がかり的国体論の横行を苦々しく感じていたのであろうか。いわゆる国体明徴論の気狂いじみた行き過ぎに対しては、一般はもちろんだが、とくにインテリ軍人の中に反感が多かったようで、これが荒木氏や、真崎氏等の失脚を早めた一因となっていることも、見のがせない事実である。革新将校中の一頭梁であった橋本欣五郎氏なども、近頃は、無暗と兵舎やその他の建物に、菊の御紋をベタベタ張りつけるものだから、兵隊どもは、うっかり立小便も出来んよ、とれこれは暗に皇道派を笑殺した戯言ではあったろうが、私が聞いた記憶もこの頃のことであった。

橋本欣五郎 ©文藝春秋