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「タモリさんも僕も偉そうなのが嫌いだった」『24時間テレビ』生みの親が語る、番組が始まった頃

『24時間テレビ』生みの親・都築忠彦氏インタビュー #1

2019/11/24
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大橋巨泉のテレビ的な運動神経

――大橋巨泉さんは、68年から85年まで、『11PM』の月曜日の司会を担当されていましたね。もともと、大橋巨泉さんも、時事や社会問題にご関心があったのでしょうか。

都築 いや、最初は全然軟派だったんですよ。巨泉さんって、もともとはジャズ評論家でしたから。だけど、「いいや、それでも構わないや」と言って、沖縄問題やら朝鮮問題やらやってもらったら、実に立派にやるんです。

 

 すごいなと思ったのは、台湾抗日運動というのを番組で取り上げたことがあるんですね。1895年の日清戦争の結果、日本軍が台湾を領有しに行くんだけれども、住民はものすごい抵抗運動をやる。なかなか平定しきれないので、日本軍は非常に残虐な弾圧をしました。

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 そんな話を番組の前に説明すると、大橋巨泉は一言、「あ、ウーンデッド・ニーだな」(注2)と言うんですよ。そうやって、頭の中にすでにあるコンセプトと瞬時にパシャッと重ね合わせて話してくれる。そういう意味では大天才ですね。テレビ天才。

――瞬発力がすごい。

都築 そう、テレビ的な運動神経が素晴らしい。確定タイムっていって、ここでCMを入れなければいけないというタイムがいくつかあるんですけれども、大橋巨泉の場合、「5、4、3、2、1……」とカウントダウンすると、ピタッとそこで結論を出して話を終える。

 彼がいたおかげで『11PM』が大成功して、『24時間テレビ』に繋がったといっていいと思います。

注2……1890年にサウスダコタ州ウーンデッド・ニーで米軍がスー族インディアンに対して行った虐殺。インディアン戦争の象徴

24時間ぶっつづけというアイディアの源泉は

――『24時間テレビ』は、『11PM』の「巨泉の考えるシリーズ・世界の福祉特集」が前身になったと聞きました。

都築 そうです。当時、毎年夏に40日ずつほど北欧に行って、福祉における先進的な取り組みを取材していたんですよね。当時の日本は収容主義で、箱物を作ることばかり議論していたんだけれども、すでに北欧で進んでいた在宅看護を紹介したんですよ。

 

 1978年の前年、日本テレビ開局25周年の記念番組を社内で募集していたので、その取材をもとに企画を出したら社内コンペで通ったんです。

――24時間ぶっつづけで、というのが当時は類を見ない発想だったと思うのですが、何に着想を得たのですか。

都築 まず考えたのは、「コンシャスニス・レイジング」、つまり多くの人にまず問題に気づいてもらいたい、ということでした。