毎年億単位の寄付金を集めているにもかかわらず、厳しい批判にさらされている番組がある。チャリティー番組の『24時間テレビ』(日本テレビ)だ。
以前から存在した、出演者に出演謝礼が支払われることに疑問を呈する言説に加え、近年では番組が、健常者を感動させたり、やる気を出させるために障害者を利用する「感動ポルノ」にあたるとする言説も増えている。
私、ダブル手帳は1993年生まれの脳性麻痺・発達障害当事者だ。アニメファンであることや、就活における自身の経験から、メディアにおける障害者の描かれ方について興味を持ってきた。
言うまでもなく、障害者が普段のテレビ放送に登場することは、ごくごく少ない。『24時間テレビ』は年に1度、障害者の存在がテレビで大きく取り上げられる機会である上に、いまだ15〜19%の視聴率を誇る人気番組でもある。
この番組を生み出した人は、一体どういった考えを持って、番組を企画したのか。今の『24時間テレビ』をどう見ているのか。そして、番組に寄せられている批判に、どう答えるのか。そういったことが気になり、『24時間テレビ』発案者の都築忠彦氏(84)に取材のお願いをしたところ、快く引き受けていただいた。
都築氏は1935年生まれ、愛知県出身。東京大学経済学部卒業後、1961年に日本テレビに入社した。入社後は、『11PM』の社会派企画「巨泉の考えるシリーズ」を手がけたことで注目を集め、『24時間テレビ』降板後は日本テレビのグループ会社のNTVヨーロッパを立ち上げた。
前編では、『24時間テレビ』誕生までの経緯を聞いた。(全3回/1回目)
◆◆◆
『24時間テレビ』の前に『11PM』があった
――本日は『24時間テレビ』のことについて伺いたいと考えています。そもそもは、深夜番組『11PM』のプロデューサーだった都築さんが、番組の内容から着想を得て、社内で提案したのが始まりだったと聞いています。
都築忠彦氏(以下、都築)そうなんですよ。『11PM』って、どんな番組だったか知っていますか。
――私が生まれる前に放送が終了したので、リアルタイムでは見ていなくて。
都築 深夜帯にやる情報番組だったんですよ。女性のヌードシーンなど、お色気要素もあったので、当時は「俗悪番組」なんて叩かれていたんだけれども、深夜帯の番組の視聴率が1%台の時代に、視聴率を15%以上も取った。
そのうち、テーマ性の強い企画もやるようになって。1971年には「戦後日本の大空白」というタイトルのシリーズで徴用工問題や慰安婦問題を取り上げましたし、1972年には、沖縄返還前や返還当日を取り上げた企画もやった。 ギャラクシー賞を取ったりもしたんですよ。
田原総一朗に「なぜ視聴率が下がるネタをやるのか」と聞かれて
――『11PM』のプロデューサーだった当時、1975年に『中央公論』に掲載された対談で田原総一朗さんに「何で(視聴率が)1.0%みたいな韓国問題をやるのか。コンマ以下になってしまう沖縄問題をやるのか」 と聞かれています(注1)。
都築 僕は、視聴率は、取れるときに取ればいいって考えです。取れるものでベースを作った上で、あとからテーマ性のあるものも打ち出していけばいいんです。
それに、面白いことに、ある時点から「バラエティー的な内容も、社会派の内容も地続きに感じられる」なんて声が視聴者から寄せられるようになるんですね。視聴率も、社会派の企画をやっても落ちなくなった。これに関しては、大橋巨泉という天才のおかげ、という部分が大いにあります。
注1……『中央公論』1975年4月号「方法としてのスキャンダル」より