毎年億単位の寄付金を集めているにもかかわらず、厳しい批判にさらされている番組がある。チャリティー番組の『24時間テレビ』(日本テレビ)だ。以前から存在した、出演者に出演謝礼が支払われることに疑問を呈する言説に加え、近年では番組が、健常者を感動させたり、やる気を出させるために障害者を利用する「感動ポルノ」にあたるとする言説も増えている。

 私、ダブル手帳は1993年生まれの脳性麻痺・発達障害当事者だ。アニメファンであることや、就活における自身の経験から、メディアにおける障害者の描かれ方について興味を持ってきた。

 この番組を生み出した人は、一体どういった考えを持って、番組を企画したのか。今の『24時間テレビ』をどう見ているのか。そして、番組に寄せられている批判に、どう答えるのか。そういったことが気になり、『24時間テレビ』発案者の都築忠彦氏(84)に取材のお願いをしたところ、快く引き受けていただいた。

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都築忠彦氏

 都築氏は1935年生まれ、愛知県出身。東京大学経済学部卒業後、1961年に日本テレビに入社した。後編では、都築氏の生い立ちや、『24時間テレビ』にも一貫する、都築氏の信念について聞いた。(全3回中3回目/1回目から読む)

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戦争という原体験

――都築さんは沖縄問題や朝鮮問題といった、太平洋戦争に関連する問題にも一貫して取り組んでいますが、これは戦争を経験した実体験からですか。

都築 ええ。終戦のとき、9歳でした。

――終戦はどちらで迎えた?

都築 揖斐川、木曽川、長良川の河口あたりの小都市にいました。米軍の飛行機がキラキラっと上を飛んで行っても、もう全く反撃できず、何度も爆撃され、たくさんの人が死にました。助かった友達も、焼け跡で、栄養失調で、亡くなった。

 うちの隣には爆弾が落ちてできた大きな穴があったんだけれども、そこが水たまりになっていて、ボウフラがいっぱい湧いてた。そんなことを覚えていますね。

――終戦の記憶もある?

都築 「エッ、もう終わりなの?」と思ったことを覚えています。「ここまで来たなら、最後までやればいいのに」と。子どもは洗脳されちゃってるから。映画が途中で終わった、みたいな感じなんですよ。

 でも、大人はそういうのをよく分かっているから、パタパタパタッとその辺を片付けて、「ご飯でも炊こうか」という雰囲気なんです。

 

――大人は冷めていた。

都築 ええ。うちの親父なんかは神社右翼だったんですよ。戦争中は旗を振って神社へみんな引き連れて、滝に打たれて必勝祈願をしたり。それが終戦になったらコロッと変わって、『文化復興』とかいう雑誌を作ると言い出した。転向ということに対して、まったく何とも思ってないんです。

 でも、これはうちの親父だけでなくて、日本全土がそういうふうでしたよね。「マッカーサーを日本の皇帝にしよう」とか、そういう時代ですから。