文春オンライン

連載昭和事件史

1932年に巻き起こった大相撲「春秋園事件」 革命の裏にいた“意外な人たち”

果たされなかった伝統武道の「改革」 #2

2020/01/31
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「悲劇の横綱」武蔵山の脱走

「武蔵山脱走す 脱退組から除名さる」。1月13日付東京朝日朝刊はこう報じた。

「風邪で医師の手当を受けていた武蔵山が12日夕6時ごろ、病院に行くと突然言い出し」、監視役を振り切ってタクシーで姿を消した。力士団の1人が本人を探し当てたが、武蔵山は「何とも申し訳ない。自分はそもそもこの運動の最初から、病気と称して避けようと思っていたが、諸君の熱情に引きずられて、自分を偽りながら、今日まで行動を共にしていたが……」と語ったという。

 武蔵山は決起前日の番付発表で兄弟子の天龍を追い越して新大関に昇進したが、1月7日付東京朝日夕刊の記事にあったように、以前から拳闘(ボクシング)界への転向が噂されていた。そこには右翼団体「大行社」の清水行之助と、北一輝の腹心の右翼活動家・岩田富美夫が介在していたとされる。

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 しかし、結局その道もとらず、協会に復帰する。「裏切り者」という罵声を浴びながら、のちに横綱に昇進するが、ケガで不振のまま引退。「悲劇の横綱」と呼ばれる。

引退後の武蔵山 ©文藝春秋

「協会へは戻らない」意思表示として“まげを切る”

 関東国粋会の仲介で“手打ち”直前までいったが、天龍の強い抵抗で破談に。以後、関東国粋会の襲撃を恐れるようになる。そこで、天龍は驚くべき行動を起こす。

「天龍以下卅名の力士 今朝遂にまげを切る 悲痛な決意を表現」(1月17日付東京朝日夕刊見出し)。記事にはこうある。「(1月)16日午前5時、早くも力士団31名は本部楼上に全員集合。緊張した協議会を開き、その席上、突如天龍は隣室に退いたので、大ノ里、山錦の両名が後を追って入ると、天龍はやにわに隠し持ったはさみで自らのまげを切らんとしたので、驚いてさえぎりなだめたが、天龍は声涙共に『諸君の復帰を要望する自分だ』と一言血を吐くように言うばかり」。

 結局31人中30人が一斉にまげを切ることに決定。午前8時、紋服姿に着替えて集まり、「かねて用意の四寸ぐらいのはさみを各自に配り、一同白紙を懐中から出し、膝の前に置き、一斉に断髪。直ちに白紙に包み、署名を行った」。まげを切るのは「協会へは戻らない」意思表示。調停を拒絶する文書とともに関東国粋会に届けた。

本部の前でマゲを切った天龍(左)ら(「近世日本相撲史第一巻」より)

 ここで「30名」とあるのは、人気の巨漢力士・出羽ヶ嶽が「肉体その他の条件から、まげを切らすに忍びない」(東京朝日)ということになり、1人だけまげを残したからだ。「『おれはまげ切ったら何にもできねえ。これだけは勘弁してくれ』と6尺8寸(206センチ)の巨体を震わせてワアワア泣いたという」(「昭和大相撲騒動記」)。