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飯田橋の病院で「漫画でも描けたらいいな」って頭をかすめた

植田 漫画家になろうと思ったのは大学も卒業して、20代の頃なんです。もともと子どもの時から絵を描くのは結構好きで、うまかったんですよ。ただ、先生に言わせれば「絵葉書みたいな絵だ」って言うんです。素朴っていうか、俗っぽいってことだと思うので、まあ褒め言葉じゃなかったと思うんですけどね。でも漫画は特に好きで読んでたわけではなくて、小学5、6年のときに『少年サンデー』とか『少年マガジン』が刊行されたんですが、それも友達の家とか床屋にあればちょっと読むくらい。赤塚(不二夫)さんの作品とか読んでないんですよ。

 

―― ご出身は?

植田 東京です。どちらかというとスポーツ少年でした。小学校、中学校は野球ばっかり。高校は都立田園調布高校ですが、ラグビー部に入りました。宗教人類学者の植島啓司は、同級生です。昔、『文藝春秋』の「同級生交歓」にラグビーボール持って出ました。で、なぜか私たちの学年は一気に15人入部することになった。先輩もOBも喜んじゃって、夏の合宿がえらい張り切ったものになりましてね。それで私、あまりにも絞られて体を壊してしまったんです。腎臓をやられてしまって。飯田橋の厚生年金病院に2ヵ月入院しました。病室で「ああ、これはもう、みんなと一緒にやる仕事なんかは無理だろうな」と。そのとき、ちらっとだけ「漫画でも描けたらいいな」って頭をかすめたんです。

―― でも、漫画家を目指そうとは思わなかったんですか?

植田 ええ、報道カメラマンになろうと思ったんです。ラグビーやっていたから瞬発力には自信があった。ワーッて走って行って一番いいところで現場をおさえたり、誰もいないところを見つけてよじ登って撮影とか上手くできるんじゃないかって(笑)。それで最初は日大の写真科に行こうと思ったんだけど、入学金が高くてやめた。結局、中央大学の哲学科に入るんですが、それは「写真には思想的背景が必要だ」っていう思いがあってのことなんです。大学のそばに東京写真専門学院があって、夜間に通いました。

―― 憧れていた写真家はいますか?

植田 やっぱりキャパですよね。日本人だと東松照明とか、奈良原一高。白黒で、焼きがすごい人とか好きでした。

新宿騒乱事件をカメラを持ちながら走り回った

―― 大学に入学したのは何年のことですか? 

植田 67年です。学生運動がどんどん激しくなっていく季節に大学生でした。だから習作として学生運動を追いかけて撮っていましたよ。伊東のアスパック粉砕デモとか、いろいろと。特に新宿騒乱事件はよく覚えています。あれは68年の10月21日ですよね。私は中央大学の社学同というブント派にくっついて有楽町にいました。デモの衝突がすごくてね、駅から学生が落っこちてきたり(笑)。それを撮ってたら、「みんな新宿で集まってるぞ!」という話が伝わってきて、そのまま今度は新宿まで歩いて行ったんです。夜の10時半頃だったかな、新大久保の方から来た電車が途中で止まって、そしたらバラバラバラバラって棍棒持った学生がワーッてやって来て。もう新宿駅がグチャグチャの状態になって、機動隊も最初は「やめなさい」「もう帰りなさい」だったんだけど、最後は「全員検挙!」。私はその一部始終を駅構内を走り回って、カシャカシャカシャって。

新宿騒乱事件 「私はその一部始終を駅構内を走り回って、カシャカシャカシャって」 ©共同通信社

―― ええーっ。でも、それほど写真に夢中だったのに、カメラマンへの道を途中で断念されたのはどうしてなんでしょう?

植田 あるとき、日比谷の野外音楽堂で三派全学連の集会があったんですが、そこに赤軍派と京浜(安保)共闘がやって来て、セクトの連中が蹴散らされて壇上を乗っ取られちゃったんです。赤軍派は後に引けない連中ばかりで、もう本気なんですよ。すると蹴散らされたほうは、「帰ろう帰ろう」みたいな感じで引いて行ったんです。なんか軽い感じで。それを見ていていっぺんに幻滅したんですよね。なんだろう、「こんなもの追いかけてたのか、俺」という心境だったのかな。それで、写真なんかつまんねえや、ってなっちゃって。