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長谷川 晶一
2017/09/28

【ヤクルト】宮本慎也の「厳しさ」が生んだ青木宣親との衝突

文春野球コラム ペナントレース2017

来季、ヤクルトのコーチ就任が伝えられる宮本慎也氏のインタビュー。後編は青木宣親との“衝突”の話から、宮本氏のスワローズ論に迫る。※前編はこちら「来季コーチ就任? 宮本慎也が引退会見で「未来は明るくない」と語ったワケ」http://bunshun.jp/articles/-/4295

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2009年、青木宣親との衝突

ヤクルトのヘッドコーチ就任が噂される宮本慎也 ©文藝春秋

 宮本さんにはもう一つ聞きたいことがあった。引退後に発売された彼の著作『意識力』(PHP新書)には、09年の試合中、青木宣親と宮本さんが激しく口論する場面が登場する。以下、引用する。

《思い出すのは、二〇〇九年の青木宣親とのやり取りである。クライマックスシリーズ進出をかけて、三位争いをしている最中だった。青木自身の打撃の調子が下降線をたどるなかで、守備でもミスが続いていた。チームの主力である青木はやり玉に挙げられることも多かった。そんななか、ある試合でセンターを守っていた青木の打球へのチャージが遅く、単打で済むはずが、先頭打者を二塁まで進めてしまったことがあった。

 試合中に外野守備・走塁コーチだった飯田哲也さんが青木のミスを指摘したのだが、青木が「そんなことは分かっていますよ」と、反抗した態度を取ってしまった。

 コーチである飯田さんも引くわけにはいかず、激しい口論になった。

「宮本さん、なんとかしてください」

 他の若い選手に言われた私も仲裁に入ったのだが、「いい加減にしろ」と言った私に対して青木は「なんなんですか」と言い返してきた。

 リーダーとしては恥ずかしいことだが、私も性格的にすぐカッとなってしまうタイプである。「なんやと」と一触即発の雰囲気になり、慌てた周りの選手が制止する事態になってしまった。》

 結局、この日の試合後に頭を冷やした青木が謝罪することで一件落着するのだが、当時、僕も青木のインタビューをした際に、宮本さんについて言及する言葉の端々に棘があることが気になっていた。

――あの本に書かれていた当時、青木さんとの関係は難しかったのですか?

「あれは、彼がちょっとひどかったと思います(笑)。僕の引退試合を見に来てもらって、その後に久しぶりに食事をしたんですけど、“あの頃の僕は病んでいました”って、自分でも反省していましたね。“あれは今でも後悔しています”と言っていたので、あの件に関してはもう何も思っていないです」

――あの当時、青木選手にインタビューをしても、「宮本さんには宮本さんの考えがあるだろうけど、僕には僕の考えもありますから」とか、「誰もが宮本さんのような考えで野球をやっているわけではないんで」とか、両者の関係性が心配だったこともありました。

「青木の場合は、ヒットを打つことに貪欲な選手で、僕もその気持ちを理解してあげることができていたらよかったんですけどね。でも、あれだけの選手だったら、自分のことよりも、まずは《チーム第一》という姿勢がほしかったのも事実です。あの当時は、彼は彼で実績を上げて反発したい気持ちも出ていただろうし、僕は僕で“勝ちたい”という気持ちから彼に厳しく当たってしまった。あのときはうまくいかなかったかもしれないですけど、お互いに今では理解できたのでよかったです。アメリカでプレーしている青木は、ヤクルト時代よりもいい顔をしていると思います。僕にとっても、いろいろなアプローチ方法があるんだと、いい勉強になりましたから」

 近い将来、宮本監督、青木打撃コーチによるヤクルトが誕生すれば、神宮に通う頻度はますます増すことだろう。同級生の真中満監督の長期政権を見たいという思い。そして、同じく同級生の宮本監督の采配を見たいという思い。ファンとは、何と贅沢でアンビバレンツな思いを抱く生き物なのか。しかし、真中監督は今季限りでユニフォームを脱ぐ。僕にとっての次の希望は「宮本慎也監督」就任なのだ。