類まれなキャプテンシーを持つ男
少年時代から若松勉ファンとして生きてきて、彼の引退後も「若松さんが在籍したチームだから」「若松さんの教え子が活躍しているから」「背番号《1》が、脈々と受け継がれているから」という理由でヤクルトの応援を続けてきた。そんな僕にとって、若松さんとはまったく異なる意味で応援し、思い入れの強い選手がいる。
宮本慎也――。
1970(昭和45)年11月5日生まれ、大阪府出身。PL学園高校、同志社大学、プリンスホテルという超エリートコースを歩み、94年ドラフト2位でヤクルト入り。入団後すぐに台頭し、不動のショートとして、90年代後半以降のリーダーとしてヤクルトを引っ張った。さらに、彼のキャプテンシーはチーム内のみにとどまらず、04年のアテネオリンピック、08年の北京オリンピックでは日本代表チームのキャプテンを任され、プロ野球選手会の会長まで務めた。
入団当初は、まったく打撃面で期待されておらず、当時の野村克也監督から「専守防衛の自衛隊」と揶揄されていたにもかかわらず、プロ18年目の12年5月4日に2000安打を達成。大卒、社会人経由でプロ入りした選手で2000本以上放ったのは、同じくヤクルトの古田敦也以来の快挙だった。
どうして、僕が彼に惹かれるかというと、「同い年だから」ということはもちろん、彼のリーダーシップ、キャプテンシーに敬意を抱いているからだ。現役時代に何度か宮本さんにインタビューをした。その際にしばしば、「みんなをまとめるのは大変だ」というニュアンスの言葉を聞いた。
拙著『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)において僕は「ヤクルトらしさとは何か?」を探った。本書の取材を通じて、ときおり垣間見える「ぬるま湯体質」と言うべき、チーム内の緩さを感じることがあった。
でも、宮本慎也のキャプテンシーの偉大な点は、決して迎合せずに若手に対してきちんと「ノー」と言えることだと思っていた。その宮本さんが「来季からヘッドコーチに就任するのでは?」とウワサされている。僕はかつて宮本さんに、「ヤクルトとはどんなチームなのか?」という質問を投げかけ、「どうやって、緩みがちな雰囲気を締めたのか?」を尋ねたことがある。ここでの発言には宮本さんの「厳しさ」、そして理想とする「指導者像」のヒントが隠されていた。拙著で紹介できなかったエピソードを改めてご紹介したい。