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引退会見で「ヤクルトの未来は明るくない」と言った理由

 最初に宮本さんに尋ねたのは、彼が「引退発表会見」で放ったひと言だった。僕は新聞記者ではないので、普段なら記者会見に出ることなどないのに、このときだけは宮本慎也がどんな表情で何を語るのかが聞きたくて、僕も現場に駆けつけていた。

――13年8月26日の引退記者会見で、ヤクルトに対して「決して明るい未来ではない」と発言しました。これは、どういう意味だったのですか?

「ハッキリ言うと、いい選手がいないということですね(笑)。あの当時、川端(慎吾)は故障がちで1年間満足に働けない。山田(哲人)はまだ出始めたばかり、(中村)悠平はレギュラーポジションを奪いきれない。みんなが同じ失敗を繰り返しているように、僕には見えました。うまく成長すれば15年のように優勝できる力はあったけれど、もしもうまくいかなければ、“あのままではまずい”という思いがあったし、チーム内に甘えがあったので、あえて“未来は明るくない”と言いました」

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――若松勉監督の後、06~07年は古田敦也監督になり、さらに08年からは高田繁監督となりました。90年代の黄金時代を支えたメンバーたちが海を渡ったり、引退したり、かつての「野村野球」が少しずつ薄れ、メンバーも大幅に若返る中で、08年の宮本さんは相当しんどそうに見えました。この年のことを振り返っていただけますか?

 宮本さんは小さくうなずいた後に、口を開いた。

「古田さんが辞められた後は、完全にチームが入れ替えの時期でした。ベテランがいなくなって、高田監督も積極的に若手を起用しようとしていました。だからこの年は、なあなあな部分が多くなったら、基礎がおろそかになると思ったので、あえて若手には厳しく接していました。チームが変わろうという時期は難しいんですよね。実績のあるベテランが僕しかいなかったので、本当に難しかったです。同世代の真中(満)もいましたけど、彼はファームにいることが多かったし、その前年に古田さんの退団とともに高津(臣吾)さん、(石井)一久がいなくなったので、僕一人しかいないという状況でした」

 宮本さんの言う「なあなあな部分」こそ、「負けグセ」の源泉なのだろう。

――そんな状況下でFA権も取得し、自らチームを出ることもできましたよね。移籍は考えなかったのですか?

「考えました。実際にお話もありましたし……」

――それでもヤクルトに残留した理由は何ですか?

「古田監督2年目の07年は最下位に終わって監督が代わったことで、08年は若手に厳しく接していたのに結局5位に終わってしまった。それなのに、自分は若手に言うだけ言って、そのままチームからいなくなるのはどうなのかと考えました。あと、この年僕はサードにコンバートされました。それは決して本意ではなかったけど、自分なりに頑張りました。その年のオフに球団はサードに新外国人の獲得を考えているという報道もありました。ここでチームを去ると、“あいつは人には厳しいことだけ言っておいて、ライバルが入団するから他球団に移籍するんだ”と思われるのもイヤだった。このとき、親しい新聞記者に、“勝負して負けたら、引退すればいい”と言われて、残ることにしました」

――その時点で、「ヤクルト残留」はスムーズに決めることができたのですか?

「できましたね。この時点ですでに、“引退まではヤクルトにいるぞ”と決めたし、球団から“もういらない”と言われるまでヤクルトのために頑張るつもりでした」

 宮本さんの言葉にあるように、08年シーズンにショートからサードへコンバート。さらに、この年は8月に北京オリンピックがあり、メダルを獲得できず、「キャプテンとして責任を感じる」と発言もしていた。同い年でありながら、背負うものがあまりにも違い過ぎて、器の小さい自分が恥ずかしくなってくる。

――08年はいろいろなことがありすぎましたね。

「そう言えばそうですね。こうして取材をしてもらって初めて、“あぁ、あの年がいちばんしんどかったんだ”と思いますね(笑)」

 淡々と宮本さんは語り続けていた。

※後編に続く

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