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謝罪する気はあったのか? 森喜朗氏の大炎上会見を通してみられた「肯定的幻想」

臨床心理士が、仕草と言葉を分析する

2021/02/06
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自己奉仕的なことを話すという傾向がある

 だが、森会長は“不適切な表現”という言葉を使っている。秘書かスピーチライターが書いたのかもしれないが、“発言”ではなく“表現”――。表現という言葉の意味を調べると、「心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化すること」とある。聞いた話というだけでなく、森会長の中にある女性への意識が、発言に付け加えられた可能性はあるだろう。

「私は一生懸命、こう献身的にお手伝いして7年間やってきたわけですので」

 肯定的幻想には、自分にとって都合の悪い情報の場合、自分の価値を高めようと自己奉仕的なことを話すという傾向があるという。森会長の発言そのものだ。

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「辞任の考えは?」との質問には「辞任するという考えはありません」と言い切って、献身的にやってきたと自負心を見せる。過去の功績は確かにあるのだろうが、「私はこうした」「私は評価した」と自己正当化が続く。自分は悪くないと言いたいのだろう。肝心な話しになると「私はわかりません」「そういう話を聞いた」を繰り返し、自分のミスは認めない。

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森会長を取り巻く人々の内に「不作為バイアス」がある?

「老害が粗大ゴミになったのかもしれませんから、そしたら掃いてもらえばいいんじゃないですか」

 老人とはいえ、まだまだ現役。排除できるものならやってみろ。俺以上にこの仕事をできる者はいない。この言葉の裏にあるのはそんな感情ではないだろうか。だからこそ「辞任するという考えは」との質問に「自分からどうしようという気持ちはありません」と即答。「邪魔だと言われれば」と前置きした上で、自分のことを「老害が粗大ゴミになった」と表現するも、「かもしれませんから」と付け加え自己否定はしない。肯定的幻想により、自分にとって好ましくない事実や望まない現実から目を逸らしてしまうのだろう。

 わずかに笑みを見せながら「そしたら掃いてもらえば」と他人の行動を先回りしてけん制する。一歩間違えば長い物には巻かれろ的な権威主義に見えるが、こうできるのも森会長を取り巻く人々の内に「不作為バイアス」があるからではないかと思う。