「私はアイデンティティクライシスに常に直面しているのです。かくも香港人の身分の問題は複雑で、混乱しています」。ウォン・カーウァイが映画化権を取得し、世界12ヶ国から翻訳オファーを受けた華文ミステリー『13・67』の著者・陳浩基はこう語る。返還や雨傘運動など香港現代史の闇に迫った本作は、本格の構えながら社会派ミステリーとしても評判を呼んでいる。島田荘司推理小説賞受賞後第1作で世界のメジャーに躍りでた陳氏に、作品の読みどころとなる「香港と香港人」の実相を聞いた。

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やってられない。やめてやる。警察官の不満が増加中

 日本の2ちゃんねるに似たネットのフォーラムは香港にもあります。警官たちのフォーラムを見ていると、主に彼らの組織に対する不満なのですが「やってられない」「もうやめてやる」みたいな書き込みが増えているのに気付きました。私たち香港市民のヒーローであった警察が、変質しつつあるのではないか。そう思ったのです。それが小説『13・67』の構想を練り始めた一つのきっかけでした。

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『13・67』は最初、3つの物語を3万字ずつ書くつもりでした。9万字あれば本になります。2013年から遡る形にして、1980年代が1つあって、最後は香港暴動があった1967年です。そこに1997年の香港返還の話を1つ加え、さらに2本増えて、計6本の中編小説による分厚い作品となったのです。

台湾で行なわれたインタビュー。右・陳浩基氏、左・野嶋剛氏。©玉田誠

 私は作品を書く前にじっくりと時間をかけてリサーチして「設計図」を作ってから書き始めます。1つの章を書いてはしばらく考えて準備し、また書いては考え、執筆には都合2年ほどかけました。

 私の家族に警察官がいました。家族のだれかは伏せておきますが、良い警察官だったと思います。彼が所属する警察の部門が廉政公署(筆者注:主に香港警察の腐敗対策として導入された公務員の汚職摘発他のための組織。『13・67』でも登場する)の摘発を受け、当時麻薬取締の部門にいた彼と1人の後輩以外、同僚はみんな麻薬組織の賄賂を受け取っていて摘発されたのです。

『13・67』(陳浩基 著 天野健太郎 訳)

 そんな彼は、退職の前に私にこう語りました。「警察はごますり野郎ばかりで、仕事ができない人間が偉くなっている」

 彼からだけではなく、知り合いなどからも返還のあと、香港警察は雰囲気が変わった、おかしくなった、という話を聞かされます。

 だから私は、あえて素晴らしい1人の刑事の話を描きたくなったのです。時代とはズレてるかもしれない。警察はどんどん頼りにならなくなっている。でも、彼は自分のやり方で犯人と戦い、組織を動かし、難事件を解決していく。彼の名前はクワンです。クワンのやり方は完全には合法と言えない時もあります。警察官がみんなクワンみたいだったら大ごとですが、1人か2人ぐらい、ピュアに良心にしたがって奮闘する刑事がいてもいい。クワンは私の理想の警察官を体現しています。同時に、クワンを通して、香港暴動から返還、雨傘運動に至るこの50年間の香港社会の変化を描こうとしました。

雨傘運動は2014年、普通選挙導入をめぐり学生を先陣に始まった反政府デモ。©iStock.com