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角幡 唯介
2017/10/23

激しくアジアに行きたくなる、メコン川探検記――角幡唯介が『メコンを下る』を読む

『メコンを下る』(北村昌之 著)

『メコンを下る』(北村昌之 著)

 メコン川といえば黄河、長江、ガンジス、インダスに比肩しうるアジア有数の大河である。中学校の教科書にも載っていたことから、誰もが名前ぐらいは知っているスター河川と言っていい。そのスター河川の源流探検が行われて源頭が発見されたのが、なんと二十世紀末、つまりつい最近のことだったといえば、皆さん驚くだろうか。

 驚かないかもしれない。どうでもいいと言われれば、その通りだ。しかしこれはかなり驚愕する偉業である。十九世紀にアフリカで行われていたような地理的探検が、源頭発見という立派な成果をともなって人知れず継続されていたのだ。しかも日本の無名の若者たちによって。探検冒険に関心の高い欧米なら大きなニュースになっていたことだろう。

 無名の、と書いたが著者の北村氏は名門東京農大探検部の監督をつとめた業界では知らない人のいない有名探検家だ。私も本人から「またメコン行くんだ」「本を書いているんだ」と聞き、そのたびに「あ〜そうですか」と受け流していた。じつは何をしているのかよく知らなかったのである。それに本も出る出ると言って全然出ないもんだから、その話は流れたものだと思いこんでいた。それが今になって出たのですぐに読んだが、本当に意味のある地理的発見をしているので仰天した。どれだけ時代を逆行しているんだと半ば呆れる思いだった。

 仰天したのは探検の素晴らしい業績もあるが、本として純粋に面白かったことも大きかった。構成としては旅を時系列でつづっただけだが、結果的にそれが見事な物語となっている。源流部の地理的源頭発見の記録にはじまり、チベット上流部の深い峡谷内部における決死の激流下りへの挑戦を経て、最後は竹筏や地元の船に乗り換えながら、下流部の東南アジアの国々をのんびりと下る。それぞれのパートで、それぞれのメコンが顔を変えて登場し、山あり谷ありで飽きることがない。読みやすい文章に流されるように一気に読み終えた。

 足掛け十二年、六百七十五頁におよぶ長い旅の記録で、私の心に一番刺さったのはじつは後半ののんびりした下流部の部分だった。本来の読みどころは源流探検や上流部の冒険川下りの部分なのだと思う。そもそも最後ののんびり下りは、彼らが狙っていたメコン全流航下という世界初記録を別の探検家に達成されてしまった後の、目的を失った後の余興のような旅だった。しかしこの部分が実にいいのだ。それまでのハラハラした激闘から一転した、滔々と流れる飴色のメコンと一体化したような旅。人々との交流の中を無為とも思える時間が流れており、私たちが思い浮かべるメコンがすぐそこにあるのだ。本書を読みながら私は激しくアジアに行きたくなった。

 若者が力をあわせて、かけがえのない何か大事なものを手に入れる。それは旅という行動様式のみが可能にする、人生における宝石のような瞬間だ。そう書くと陳腐で感傷的な表現のように思えるが、しかしそれを描くのに成功した記録や本はそう多くない。本書を読んで私は、こんな大きな川をこんな長い年月をかけて何度も挑戦した彼らのことを、率直に羨ましく思った。こんな冒険は、一生に一度あるかないかだ。彼らはそれを手に入れた。それは人生を手に入れたに等しいことである。

 好感の持てる素晴らしい青春記であり、稀に見る旅行記だ。ぜひ多くの人に読んでもらいたい。

メコンを下る

北村 昌之(著)

めこん
2017年6月1日 発売

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