『中動態の世界』(國分功一郎 著)

 中動態。一般的にさっぱり馴染みのない概念であるが、言語学の分野においては失われた動詞の態をさす言葉らしい。動詞の態? われわれの知っている動詞の態といえば能動態と受動態である。それ以外の態があったと言われても何のことか全然わからないし、必要だとも思えない。一体どういうことか?

 まず能動態/受動態を単純化して考えよう。主語が〈私〉の場合、能動態は〈私〉の意志がもとになって発生した行為であり、受動態は別の誰かの意志にもとづき〈私〉がさせられた行為である。共通しているのはどちらも誰かの意志が起点となり行為が発生している点だ。ところが中動態は違ったらしい。中動態は意志の有無が基準となるのではなく、主体である〈私〉がその行為の過程にいるかどうかが問われたという。

 例に挙げられるのがカツアゲだ。銃を突きつけられ金を出せと脅される。おっかないので金を出す。このとき能動/受動関係で考えれば、脅されたとはいえ、金を出した行為は能動態として記述される。しかしおかしくないか? こっちは金を出したくて出したわけではないのに。

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 実はこうした状況は中動態で説明したほうが自然になる。中動態で問われるのは意志ではなく、プロセスの中心にいるかどうかだ。脅される形で行ったとはいえ、カネを出したのは私であり、その行為の中心に私はいた。つまり意志に関係なく、私は行為過程に直接関わっているわけで、昔の人はこうした行動を中動態で表現していたのだ。

 このように再現される失われた中動態の世界は恐ろしく説得的である。言われてみればわれわれの世界はほとんど中動態的に進行する場面ばかりだ。評者にとっては結婚がそう。別に妻に銃を突きつけられたわけではないが、状況に従ううちに気がつくと結婚しており、子供ができて、この前など家まで買うことになってしまった。完璧に中動態で記述されるべき事態なのだ。

 同時に浮かび上がるのが意志という概念の胡散臭さである。そもそもわれわれに意志などあるのだろうか。あるのは過去の記憶を参照した選択だけではないのか。意志概念を措定すれば意志した者に行為の責任を問えるので、ある意味で体制管理側から見ると便利だ。そのような理由から意志とは、どこかの天才により人為的に発明された架空の概念なのではないかと疑いたくさえなる。

 意志という概念が発明されたことで、本来自然であった中動態は姿を消し、能動態/受動態世界にとってかわられた。しかし、今でもわれわれはこの能動態/受動態の記述からこぼれ落ちる中動態の世界に住んでいる。実はそこにあるのに、なかったことにされている世界が明らかにされるという点で、本書は巨大な知的興奮に満ちた一冊だった。